一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

追憶と未来

kaneko3金子仁会長プロフィール
明治17年創業 株式会社カネコ 代表取締役会長 平成4年日本貿易振興会より長年の協力と発展に寄与したことによる感謝状受賞 平成24年愛媛県政発足記念商工労働観光部門功労賞受賞

 

 

政治家には先見の明が必要

私は平和が第一と思う

目を閉じればかなり向こうから、和服の体格の良い老人がよろよろと近づいて来る。そのうち「おじいちゃん!」と駆け寄ると、老人はひらりと身をかわして、「お面!」と私の頭を打つ。祖父も私も未だに武士の気風が抜けていない。

そうするうち頭の中から「勝って来るぞと勇ましく!」と軍歌が浮かび上がってくる。友達も大人も歌っている。今考えると日中戦争(支那事変)であった。

日中戦争は、日本軍からみれば中国軍(蒋介石の中華民国軍)から発砲、中国軍からみれば日本軍から発砲、と双方その様な認識に基づいて1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件が発端である。

しかし日本軍も中国軍も第三国の企みに依って戦争に突入させられたのかもしれないのだ。(スターリンは蒋介石の中華民国軍と日本が戦うことを望み、毛沢東の八路軍と組み日中戦争勃発への画策を行ったという説もある。戦争の勃発にもソ連のスパイ発砲が関わっているとも言われているが、定かではない。)いずれにしろ、世界の動きは今も昔も権謀術数うずまくなかで変転している。

金子会長日本の風景中img485日本軍は中国全土で戦ったが、日本の国力からみれば北京か上海迄を占領し、中国大陸の四分の一を支配下にするにとどめ、拡大すべきでなかったと思われる。中華民国にアメリカやイギリスなどが軍事物資の支援を行っている事は、日本の軍も政府も知っていた。アメリカとイギリスの中華民国支援は、両国が10年先20年先の世界情勢を見越した上のことである。すなわち国連等の国際社会の場で、日本があらゆる面に於いて立ち行かなくなる様、仕掛けていたのである。当時、日本政府は国際社会の未来図を読む事が出来なかった。政治家は先見の明が必要である。

 

戦略・戦術で勝利した日露戦争                

ロシアが不凍港を求めて南下して来つつある1903年、ロシアがヒシヒシとした足取りで迫り来る朝鮮半島へ目を向けると、朝鮮(大韓帝国)は中国の属国であった時代が長く、近代的な軍備もなかった。朝鮮半島がロシアの手に落ちれば日本の脅威である。

日本国政府並びに桂太郎総理は英断を以って、ロシアに対して1904年に宣戦布告した。

清国はロシアに大連湾と旅順港の租借を認めている。ロシアは大連と旅順に要塞を築いた。

ロシアは世界最強のコサック騎兵隊と陸軍を持つ国である。海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊(旅順艦隊)を有していた。ロシアはこの当時、世界有数の軍事大国である。しかしいざ戦ってみると、日本は陸上戦で連戦連勝であった。

日本陸軍兵士は勇猛にして規律正しい兵士であった。松山出身の秋山好古が率いる騎兵部隊は世界最強と云われたロシアの騎兵部隊と激突、第1旅団の秋山支隊は知的な戦術によって、ロシアのコサック騎兵隊を撃破した。またロシアとの戦いにおいて大山巌元帥や乃木希典大将をはじめ数多くの将兵が武士道精神を発揮した。黄海でロシア太平洋艦隊に勝利、そして日本海に於いてバルチック艦隊との海戦に勝利したが、これらの海戦は連合艦隊司令長官で名将東郷平八郎が率いる連合艦隊の緻密な作戦と猛訓練、さらには天佑によるものであった。また難攻不落といわれた旅順の要塞を陥落させた日本陸軍が、ロシア軍の補給路を封じ込めたことも、世界の軍事大国ロシアに勝った要因である。

 

韓国併合ニ関スル条約と欧米各国の思惑

1910年(明治43年)、日本は融和的に韓国併合を果たした。アメリカ、イギリスは日本の韓国併合を認める。その後、韓国は平和国際会議に密使を送り自国の外交権回復を訴えたが、世界各国は拒絶した。韓国を日本は喜んで併合したのではない。多くの負を背負う事になるからである。併合に伴い日本は膨大な資金が必要となった。今日、韓国は米国や日本と同盟国でありながら、中国に擦り寄っている。

韓国は信義よりも情実の国である。地政学的に見ても韓国は世界で最も不利な位置にある。いわばこの井戸の底のような状況から脱出するには、日本の戸を開くのみである。韓国の一部の政治家や団体がありもしない慰安婦問題を持ち出して、国際社会で告げ口外交をやっているのは誠に愚かなことだ。

私はよく知っている。一人の親方が慰安婦をして金儲けをしたい女性を集めて、日本軍の近くで金儲けをしたのであって、日本軍は全く関係が無い(軍が慰安婦のあっせんに関わった事実は皆無である)。日本の大新聞が事実でもない慰安婦問題をねつ造し、長年にわたって書き続けた事が慰安婦問題の始まりである。

ここ最近になって、この大新聞は慰安婦問題の記事は事実無根であることを認め謝罪している。日本政府は、慰安婦問題には日本軍は一切関係がなかったことを国際社会へ向けて大きく発信すべきと考える。韓国は、ベトナム戦争の時にベトナムで行った韓国軍の兵士の行動をつぶさに報道してはいかがであろうか。慰安婦問題を論ずる立場は崩れ、自業自得となるであろう。

日本が日露戦に勝利したことを世界的な視野で振り返れば、この当時、有色人種の独立国家は世界で日本一国であった。世界は白人の世界であり、アジア・アフリカ諸国は欧米の植民地であった。日本は独立国家の喜びと発展をアジアの国々へも与えようとしたが、それは広い視野で見たものではなかった。白人世界からみれば、日本の偉業(大国ロシアに勝利)によって植民地にされている国々も独立の志が生じる事を恐れていた。日本は、白人国家の深い考えに気付かなかったのではないかと思う。気付けば身を守る一手を考えるべきであったと思う。

 

日本国民として体験した大東亜戦争

1941年12月8日、日本国がアメリカ合衆国とイギリス帝国に宣戦布告した。

日本が大東亜戦争と表現したのは、現在の南方諸国が白人諸国の植民地であり、独立国にするための大義の戦いであった。しかしなぜ戦争をしなければならなかったのか、戦争に追い込まれた理由を今の日本人は忘れつつ、また忘れさられつつあるのである。

1904年の日露戦争で大国ロシアに勝ち、日本は1937年に中華民国と戦争を始めた。白人国家からみれば有色人国家の日本の強さと発展を看過できなくなった。日本の台頭は自分たちの植民地を失う事につながる。日露戦争勝利の際、白人国家が日本に対して、未来をどう考えどの様に動くか考えていたかを洞察し、柔軟な外交戦略を展開していれば、日本は大東亜戦争を避け得たかもしれない。

日本は、アメリカから石油や鉄など近代国家として必要な物資の輸入をしていたが、アメリカは全面的に輸出を禁止した。日本は近代国家として成長発展していく道を閉ざされたのである。

日本は1942年2月14日、オランダ領(インドネシア)パレンバン油田を制圧した。これ以後の戦いも、日本軍は勇猛にして礼儀正しい軍隊であり将兵であった。

1945年8月6日広島市に原爆投下。同年8月9日長崎市にも原爆投下。同年8月15日終戦。終戦後、南方諸国に居た日本軍の一部はそのまま植民地に留まって独立戦争に参加。日本の大義の通り南方諸国は独立国と成った。世界各地の植民地も独立を果たした。

日本の大義は成ったのである。

アメリカがいかなる理由を述べようとも原爆投下は国際条約違反である。日本の都市・町・村への無差別攻撃であり、すでに戦闘能力をなくし、敗戦寸前の国への無差別大量殺りくは国際条約違反以外の何物でもない。

広島の慰霊碑に「原爆を投下したのはアメリカ」と書き加えるべきだと思う。

私の大東亜戦争の体験は、小学6年に少年航空兵・少年戦車兵募集試験などがあった。昼食で家に帰ると母がうろうろしている。昼の食事に食べさせる物が無いからである。昼食を抜く。配給米の代わりにミカンが配給(コメは政府が統制)されていた。

イモやカボチャが食事に出されれば大変な御馳走であった。

食事にはよくイモの蔓が出た。成長盛りの若い身体を養う食事にはほど遠く、いつも腹ペコであった。空襲警報が市内に鳴り響くと、皆急いで防空壕へかけこんだ。100キログラムから250キログラム爆弾が落ちると、120mから150mの土煙が吹き上がる。直径100m程度の大穴があく。遺体の収容は、足が飛び手が飛び、体がバラバラになった遺体をトラックに積込む。そんな遺体を山積にしたトラックが走り去る。

空襲警報が夜中に鳴り響く、焼夷弾攻撃である。上空から白い色をした焔が空一面に滝の様に降ってくる。町が一瞬にして炎と化して、空を赤く染めつくす。迫り来る炎、人が倒れていて私の顔を見上げ、水、水と求められるも炎が迫り、水をあげる事が出来なかった。今も脳裏から消えない。

焼け跡には手も足もなく、くの字に曲がった黒焦げ遺体が転がっている。黒焦げの遺体の中で、子供を胸に抱きしめた遺体があり涙が込み上げた。私達少年も国に命を捧げる覚悟は既に出来ていた。必要であれば戦場へ、しかし平和が一番だと思っていた。

 

占領軍による日本国憲法の制定

1945年、連合軍並びに米軍マッカーサー元帥が日本に入国。その後、GHQの一夜漬け(民生局の作業班が7日間で作成)の新憲法を、日本の新憲法として制定した。

内容は、民主教育の名の下に、日本の伝統文化や民族としての誇りを軽んじ、皇国としての国の成り立ちを否定するものであった。また平和主義の名の下で、軍備を認めず、自国が外敵から攻撃されても自分の力で守る事の出来ないアメリカ隷属の憲法であった。

日本は今日、70年過ぎてもこの憲法を守っており、一度も改正をしていないという点では、世界一の古典憲法となった。日本の憲法学者は日本の憲法を解釈するだけで、どこの国の憲法でも、外敵から自国の領土と国民を守るために武力を保持しているという自明の事実を語ろうとしない。押し付けられた憲法ではなく、日本国民の総意で新憲法を作るべきと提案すべきだ。それこそが憲法学者だ。

GHQが1946年(昭和21年)5月から、極東国際軍事裁判(東京裁判)を行った。多くの軍人と軍属が裁判に掛けられ、結審が行われた。各国の判事は、侵略戦争、共同謀議等10項目の訴因でA級戦犯(平和に対する罪)の被告人を有罪とした。その中で、インドのパール判事は事後法では裁くことはできないという理由で無罪を主張したが、聞き入れられなかった。戦勝国は日本への復讐の念に燃え、裁判という形式をとったものの事後法で、数多くの罪無き有能な日本人を処罰した。

アメリカとの戦争の勃発は、米国の「ハル・ノート」によるもので、日本としては自衛の為であった。マッカーサー元帥も朝鮮戦争で共産主義の脅威を体験して、日本は防衛の為の戦いであったと、1951年米国上院に於いて証言している。

東南アジア各国や中国各地でも、多くの日本軍人や軍属が戦犯として、それらのほとんどが濡れ衣であるにもかかわらず処刑された事を忘れてはならない。

一方、進駐軍とアメリカ兵によって多くの日本人女性が被害にあっている。殺傷事件も多数あった。占領されたことによる悲惨な体験を忘れてはならない。日本は二度と敗戦国になってはならない。占領した軍隊は一面で冷酷である。このことは、白人も有色人種も皆同じかもしれない。しかし日本軍だけは、武士道精神によって弱者を助け、規律正しい軍隊であった。日本国民は、何よりも平和を愛し、和を尊び、すべての命を大切にする国民であり、日本は世界に類の無い平和国家であることは誇れるべきことだ。

 

未来への提言

親子のあいさつ日本は世界の国々と共に、平和を築き経済を発展させ、栄えねばならない。いかなる国においても、礼儀正しく平和を愛する素晴らしい人々が多くいることを忘れてはならない。

70年経た現憲法は、新しく見直すことが急務になったと思う。GHQからもらった現憲法は、日本国が真の独立国として、今後二度と立ち上がる事が出来ないことを目的とした内容であり、日本の国柄や伝統文化の破壊にも通じる内容だった。国防については、繰り返すが、日本は自国の力で国土・国民を守る事が出来ない内容である。

戦後70年、平和で経済の発展が出来たのは、今の憲法によるものではない。アメリカの核の傘を始めとする軍事力のお陰で、日本は国防費が安くすみ、経済の発展が出来たのであり、この点では感謝すべきである。戦後から冷戦の時代、日本の自衛力だけであれば、日本は他国からの侵略の脅威にさらされ、経済の発展はあり得なかった。

東北大震災の折、アメリカには友達作戦を展開してもらった。感謝すべきであるが、しかし、これは人道に加え、深謀遠慮に基づいて行われたものでもある。世界の動きを考えると、一刻も急いで、国民の総意で日本人の手で憲法を作らねばならない。

要点だけ書けば、日本は陸海空軍を先端兵器で装備させ、他国に負けない強力な軍事力を保有すべきである。しかし日本国から先に宣戦布告はしてはならない。日本はあくまでも平和国家であることを憲法に明記すべきである。日本は過去の教訓に学び、未来を見詰めて、一手先を押さえ、平和外交に徹すべきである。

中国が何千年の昔より一貫として貫いた思想は、自分が第一、第二は妻・家族、第三は親類と友人、他はすべて敵、とも言われている。また中国には、中華思想があり、世界の頂点を目指す国である。戦略的には孫子の兵法の国でもある。

鳩韓国は、昔より真の独立国とは云い難い。

ロシアは、他国を併合してロシア連邦を造った歴史がある。

日本は、地政学的に米国と同盟国を堅持すべきである。

米国と同盟国である日本は、アメリカを助け協力する義務を負う平等の同盟国である。一国だけでどの国も自国を守る事は出来ない。

政治家について、民進党などは党利党略に明け暮れるだけで、平和平和と叫び、平和を守る基盤を示さない無責任ぶりで、健全な野党として存在していない。

石油の代わりに、日本周辺の海は水素・メタンハイドレートなどが存在しており、日本は資源大国である。これらを開発実用化し、原発を廃止して、資源エネルギーが国際的に変動しても困らない様にすべきである。

日本国民が憲法を作成する際、教育については、人を大切にする、目上を尊敬する、嘘をつかない、約束を守る、人と物に感謝をする、質素倹約をする、友人を大切にする、恩を忘れない、国を大切にする事を憲法に盛り込む。

他の国では、今も日本の教育勅語の内容を教育に使っている国もある。日本は今も昔も問わず良きものは吸収して、素晴らしい国民が生まれ育つ国になってもらいたい。

以上、私の浅学の意見である。

2016年
金子 仁