一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

玄奘(二)

般若心経というお経がある。わずか二六〇文字からなる小品ながら、仏教教理の神髄を言い当てた経典として古来名高い。

なにしろ、声をあげて読誦(どくじゅ)すれば、口調が実によろしい。ゆえに、諳(そら)んじやすく、そもそも諳んじやすいように、語調に工夫が凝(こ)らされてもいるのだ。訳者にはもちろん、玄奘三蔵の名が冠せられる。

般若心経にかぎらず、玄奘の手になる訳経は総計、七十五部、一千三百三十五巻にも及ぶという。キリスト教やイスラム教のような一神教とは異なり、経典の数の多さを誇るのもまた、仏教の特色のひとつか。

玄装2 ちなみに、中国では古来、いく通りもの経典目録が作製されている。たとえばそのひとつ、玄奘没後まもなくして作製された衆経目録、「静泰録」をとりあげてみよう。驚くなかれ、八百十六部、四千六十六巻の経典が収録されているのだ。しかも、それらがすべて仏説であるという。仏教が殊のほか、多弁な宗教となる道理である。

それはさておき、古来、中国へ伝わった仏典はおおむね、サンスクリット(梵語)というインド語で書きつづられていたのだ。結果として、訳経の事業は、仏教が東アジアの漢字文化圏に広がるてだてとして、欠かせぬ要件だったのである。けだし、わが国の仏教摂取もまた、これら漢訳経典にすべてを負うていることは言うまでもない。

かくして、先にあげた訳経の数からしても、玄奘の業績がいかに図抜けたものであるかが御理解いただけるであろう。量にしておよそ、当時知られていた全経典の四分の一。もちろん、そのなかには大般若経六百巻を始めとする、横綱クラスの経論の翻訳が何点も含まれている。

しかも、自分が漢訳した経典のすべてを、みずからの手でインドから運び帰った。それが玄奘であると言えば、驚きは一層大きかろう。

さて、唐の貞観十九(西暦六四五)年といえば、わが国では大化の改新の年に当たる。玄奘がはるばるインドから帰朝した年である。思えば、十七年にわたる長い求道の旅を終えての帰国だったのである。

ちなみに、かれがひきいて帰った二十余頭の馬の背には荷物にして五百二十箱、およそ六百五十八部の経典が積まれていたという。はるばる流砂の沙漠をこえて、漢土にたどり着いたホトケの言葉である。

古来、仏典は経・律・論の三蔵に分かたれるという。しからば、訳経の仕事は秀でた語学力と同時に、三蔵を究めたひとにして始めて適(かな)うことなのだ。お察しいただけることと思うが、なにしろ、相手が仏典である。単なる語学屋さんの力では、とてものことに歯が立たない。

というわけで、われわれは仏典の漢訳に殊のほか業績のあった、四人の歴史上の人物の名をあげることが出来るのだ。俗に、四大訳経家という。かれらが三蔵という称号をほしいままにするゆえんである。

どうしたわけか、今日は珍しく、ペン先が高尚な話題に終始しているようだ。記念として、参考までにかれら四大訳経家の名を書きしるしておこう。鳩摩羅什(くまらじゅう)三蔵、真諦(しんだい)三蔵、玄奘三蔵、不空(ふくう)三蔵。

この四人にかぎらず、訳経家にはおおむね、三蔵という称号が奉られるケースが多いようだ。しかも、おなじく三蔵と称されながら、かれらにはおのずから、得手、不得手のあるところがオモシロイ。

経蔵の漢訳を得手とする三蔵がいた。律蔵の漢訳を得意とする三蔵がいた。そして、天性の論争家と言うべきか、われらが玄奘三蔵のもっとも得意とした領域がほかならぬ論蔵の訳経だったのである。

訳経の数を誇るばかりではない。たとえば、瑜伽師地(ゆがしじ)論百巻、大毘婆沙(びばしゃ)論二百巻といった、哲学的にも難解な論蔵の漢訳を、思うに、玄奘なくしてだれがいったい、訳しえたであろうか。

玄奘の名を抜きにして東アジアの仏教の深処を語りえぬゆえんである。