一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

玄奘(一)

この夏、沙漠のなかをしばらく旅行してみて、つくづく思い知った。沙漠に暮らすとは結局のところ、乾燥、風害、不毛、寒暖の大きな差、不便、欠乏、それらに耐えて生きることではないか。どれひとつとして、なまじの営為で対応出来る相手ではない。

まして、それらの克服ともなれば、これはもう生半可な人智の及ぶところでないのだ。残された道はせいぜい、自然の暴威に耐えながら、その日ぐらしに身を任せることでしかあるまい。

「地球の沙漠化を日本人の手で阻止しよう」という心意気のもとに、近々、埼玉県にある理科学研究所の手で、沙漠研究がスタートしそうだという。巨大なドームを建てて、なかに人口沙漠をつくり、先端技術を駆使して、緑化実験などを行う構想という。成功を祈りたいが、さりとて、流砂の沙漠がそう簡単に、コンピュータープログラムにインプット出来るとも思えない。

と言った次第で、テクノロジーの発達が自在に自然を操作する。そんな現代でもなお、沙漠は相変わらず、組みしやすい相手ではないのだ。モンスーン的風土の豊潤(ほうじゅん)のなかに生を享けた有難さを、あらためて感謝いたさずばなるまい。

没法子(メイファーズ)という中国語がある。古来、この民族のふところ深くで育った言葉のひとつとうけとれようか。「仕方がない」、「ゆっくりゆっくり」というほどの意味だという。

しからば、沙漠に暮らす身はせいぜいオアシスのわずかなみどりに身を寄せながら、没法子の精神で世過ぎするしかあるまい。あの流砂の沙漠にチャレンジするなど、およそ馬鹿げた所業としか思えない。度胸なしのわたしなど、すぐそんな風にひとり合点をしてしまうのだ。

いかんせん、歴史はわれわれに、無謀にもあの流砂の海に漕ぎ出した、無数のいのち知らずがいたことを語り伝えてやまないのだ。

玄装1 沙漠を征服せんとした覇者(はしゃ)がいた。沙漠を旅寝の枕とした無数のキャラバン、そして求道者たちがいた。沙漠を修行の場と心得た修行者の群があった。いずれも、心に妄動する狂気や情念に突き動かされて沙漠にのめりこんでしまった、いま風に言う、沙漠の暴走族にほかなるまい。

かくして、かれらの所業のおかげで、沙漠を文化や宗教や珍宝が往き来し、たとえば、敦煌莫高窟のような、石窟寺院が建てられる仕儀にも相成った。累々(るいるい)と横たわる廃墟もまた、かれらの足跡のひとつか。

さて、玄奘三蔵のことを書こうとして、いつのまにか前置きが長くなった。お許しありたい。かの玄奘法師もまた、常人の及びがたきそんな沙漠のチャレンジャーのひとりであったことを言いたかったまでだ。

さて、玄奘という法師が歴史上実在したことを思い起こしてほしい。かの中国の奇書、西遊記の主人公、三蔵法師のモデルとなった人物と言えば、一層親しみが深いか。

ちなみに、この法師ほどわれらが東アジアの仏教界に大きな足跡を残した人物はまたとないのだ。ゆえに、無宗教がタテマエの現代中国でも、玄奘三蔵の顕彰だけはいまも跡を絶たない。

さいわい今度の旅行では、玄奘ゆかりの故地のいくつかに肌触れるという、得がたい体験をした。

たとえば、高昌故城(カラ・ホージョ)。オアシス都市トルファンの郊外に横たわる巨大な都城遺跡である。

往時、玄奘三蔵がインドへ渡る途中、ひと月あまりもここに滞在したという。三蔵に深く帰依した王が、かれを引き留めて放さなかったという実話が残されている。

断食四日、ついに王の手をふり切った三蔵がインドからの帰途、ふたたびこの地を訪れたところ、すでに都城は灰燼(かいじん)に帰していたのである。

さて、その高昌故城(カラ・ホージョ)の廃墟に立って往時をしのぶ時、さすがに感無量なものがあったことをお察しいただきたい。

ゆえに、次回はその玄奘の事蹟をしばらく、ペン先でもってしのんでみることにいたそう。