一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

校風、社風、家風、と知識教育

中江兆民は、喉頭癌で亡くなる直前にその哲学を「続一年有半」(「一年有半・続一年有半」、岩波文庫)に「ナカエイズム」と称して書き残していますが、「意志の自由と道徳的行為」の関係を論じた箇所は非常に名論です。

「道徳的に正しい行為をするためには、<意志の自由による判断力>というようなあやふやなものには頼れない。正しい行為をするには、幼時よりの教育、平素の修養、平時から交際する友人の選択がきわめて肝要である。
意志の自由とはやぶから棒に生じるのではなく、<平素習い来たったもの>を選択する自由があるというに過ぎない。過ちを少なくするには、このことを十分意識し、平素から修養を怠らないことだ。」と述べています。

「孔孟の国」というが、孔子は役人になりたくて、あちこちの国を流浪して歩いた人ですからね。言っていることとやったことはかなり違う。
今の中国国民の偉大なご先祖様でしょう。
最近読んだ本に、外山滋比古「空気の教育」(ちくま文庫)があります。吉田松陰の「松下村塾」からは、優秀な人材が輩出していますが、みな半年か1年しか塾生ではなかった。つまり塾では「知識」は教えなかった。何を学んだかというと「空気」つまり「風」を学んだと彼はいいます。
しず谷学校挿絵それが「校風」であり、「家風」なのだといいます。この「風」は「知識の学び方」、「ふるまいのあり方」を教えることなのです。
ユダヤのことわざに、「子供には魚の食べ方を教えるのではなく、魚の取り方を教えよ」というのがあります。
知識そのものではなく、知識への到達の方法のことを「メタ知識」といいます。
今の学校は「校風」がなく、家庭には「家風」がありません。私見ではそこに一番大きな問題があります。
文化人類学者が、未開社会を調査研究し、「道徳的基準がどのように形成され、伝えられるか」を調べたところ、子供が幼いうちに、大人が手本を見せて、やってもよいこと、やってはいけないこと、を仕込むそうです。「子供は親の背中を見て育つ」といいますが、見られても恥ずかしくないような背中を今の親はもっていません。教師も同様でしょう。
先日、岡山の「閑谷学校」を見学し、その歴史と実態のお話しを聞いて驚いたのは、「入学随時、卒業式なし、平均在学期間2年」ということでした。
これは「校風」ないし「メタ知識」の伝達が教育の内容であり、「知識の伝達」ではなかったことを意味していると思いました。