一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

戦後暮らし

2.【新世代】いま、三橋貴明「大マスコミ、疑惑の報道」(飛鳥新社)という本を読んでいる。

著者はさかき漣との共著「真冬の向日葵」でブレークした経済評論家兼作家だ。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1371195211

上杉隆がリベラルな立場から、今の日本のメディアを問題視しているのに対して、三橋はあきらかに右派の立場だ。「産経」より右といえよう。
が、この本は元「毎日」取締役河内孝、元NHK立花孝志、チャンネル桜TV水島総などの本音インタビューにより、今の日本のメディアが陥っている状況と問題点をうまく語らせるのに成功している。1969年生まれ、旧東京都立大卒。
ぜひメディア関係者に読んでほしいと思う。

テレビ挿絵 私はかねがね、「1960年生まれ当たりに、日本の知のフォッサ・マグナがある」と唱えてきた。
これ以後の世代は生まれながらに、テレビがあり、家庭の「三種の神器」=冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機があった。もちろん一家に一台電話機があった。
テレビゲーム機で育ち、成人する頃にはパソコンがあった。いわゆる「ネィティブ・デジタル」のはしりだ。

この世代は1990年、30歳の時に「バブル経済破裂」を迎え、昨日まで「永遠」と信じていた一部上場の大企業があっけなく、倒産・崩壊するのを見てきた。終身雇用制と年功序列賃金体系が崩壊し、会社をリストラされた世代だ。この意味で「失われた20年」の世代と異なるだろう。
「大学新入生に薦める101冊の本」の編集作業を通じて、書評・解説の仕方に年代による差があるのに気づいた。つまり「感性の差」である。
その差がどこから来るのか考えたら、大きく「高度成長経済が始まる前の日本」を体験しているかどうかに帰着すると思った。

前に学生に黒澤明「赤ひげ」の映画を見せたら、「あれはいつの時代のことですか?」という質問が出て驚いた。長﨑の蘭学塾を出て、江戸に戻ってきた青年医師が主人公だから、幕末に決まっているが、学生にそういう予備知識がないだけでなく、話の内容が理解できないものだったのだ。つまり、貧乏とか病苦が、彼らの想像を絶したのである。(国民皆保険の実施は1961年)

昭和35年(1960)年代には、道の脇のドブも、涼み台も、縁台将棋も、風鈴も蚊取り線香もありふれていた。行商人もいたし、その呼び声にもいろいろあった。風呂も家庭風呂はすくなく、みな銭湯に行っていた。極端に言うと、江戸時代の延長だった。
テレビは白黒で、画面も小さかった。娯楽は、だから映画館での映画鑑賞だったし、貸本屋もあった。これらが全部、消えたのが1960年代である。
あの時代を経験しているのと、まったく経験がないのでは、人間が違うのはもっともだと思う。だから1960年代は「知のフォッサ・マグナ」なのである。

戦後しばらく、「アプレ・ゲール」(戦後派)、「アヴァン・ゲール」(戦前派)という言葉が流行った。あれは戰争を知っている世代かどうかの違いでしかない。が、1960年代に起こった変化は一種の社会革命だと思う。家庭の電化は真空管からトランジスター(半導体)への移行をもたらし、そのままアナログからデジタルへの変換につながった。

私たちの世代は「テレビはなぜ映るのか」というところから、考えなくてはならなかったが、1960年代以降に生まれた世代は「映るのが当たり前」であって、余計なことを考える必要がなかった。その分だけ、考えることが減り、問題の立て方がストレートでシャープになったといえるかも知れない。
ともかく「世直し」は新世代に期待したい。