一遍と今をあるく

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新聞小説

 

 

新聞小説

 

新聞の連載小説は原則として読まない。細切れに読むのが嫌なのと、多くは下手だからだ。あんなものに余計な時間を費やすほど暇でない。中学生の頃、伯母の家に泊まりに行くと「朝日」の連載小説、井上靖の「氷壁」を毎朝、貪るように読んでいて、ちょっと奇異に感じたのを記憶している。

但し「日経」の久間十義「禁断のスカルペル」は修復腎移植をテーマにしており、2011年の東北大震災をも扱った医療小説で、これは読んだ。

今、同じ「日経」に伊集院静「琥珀(こはく)の夢」という、サントリーの創業者、鳥井信次郎をモデルにした連載小説が載っている。有名な作家だということは知っているが、小説は読んだことがない。

有名な「赤玉ポートワイン」が鳥井の創作になるとは知らなかった。「あらすじ」によると、明治40年4月発売とあるから、国産ワインとしては随分早い。今では赤ワインにはポリフェノールが含まれており、健康によいことはよく知られている。

ヨーロッパではフランスでもイタリアでも、赤ワインの小瓶が入院中の患者昼食に(希望すれば)付いて出る。食事は日本のように病室で食べるのではなく、廊下の奥の陽当たりのよい窓際に用意された小食堂で、患者たちが歓談しながらとるようになっている。(いずれもがん病棟での目撃)

大学病院の職員食堂でも、医師たちが昼食時に赤の小瓶を飲んでいる。

イタリアについては知らないが、フランス人に肝硬変や肝がんが少ないことはよく知られていて、これを「フレンチ・パラドックス」という。まるで昔の日本の「酒は百薬の長」ということわざにそっくりだ。

 

田舎で育った時代に、両親から「赤玉ポートワイン」という言葉はよく聞いた。子どもだったから実物を飲ませてもらったことはない。食い意地のはったすぐ下の弟は、こっそり梅酒をがぶ飲みしてひっくり返ったことがある。あれは甘いから、まさか焼酎でできているとは、子どもは思わない。

父は40代に酩酊して小川の橋から転落する事故を起こし、外科病院に入院する羽目になったことがある。勤務先の小学校は病気休職した。それ以来タバコをやめ、酒もビール少々程度になった。母は「養命酒」を小さなグラス一杯程度、薬用と称して食後に味わって飲んでいた。父は82歳まで、母は90歳まで生きた。

その頃、酒は酒屋で買うしかなく、高いのでお百姓が焼酎の密造をやっていた。日本酒の元になる「白酒(濁り酒)」というのもあった。(甘酒とはちがう。アルコール度の低いどぶろくに近い。)しかし農家にとって現金支出は負担で、酒や魚は盆と正月、それに田植えがすんだ後に開かれる「ドロ落とし」という集落の祝宴くらいでしか、口に入らなかった。

 

私の住んでいた江の川支流の村では、血中にアンモニアを含み、腐りにくい「サメの肉」が刺身に使われていた。これは日本海から川舟で運ばれたものだ。

出雲神話に出てくる「因幡の白ウサギ」が背中を踏んで飛びこえた「ワニ」というのは、サメのことだ。「鰐」ではない。日本にはクロコダイルもアリゲーターもいない。戦後に道路が整備されるまでは、やわらかい魚はせいぜい塩サバくらいで、「サバの生き腐れ」と言われていて、青魚は食べられず、食用魚はほとんどが乾魚だった。

 

1950年代、中学生の頃だったろうか、婦人会を中心に人工の赤ワインを作るのが流行した。「赤玉ポートワイン」に似たものを安価につくろうとしたのだろう。日本酒のアルコール度はワインとほぼ同じだから、赤い色をつければ「赤ワインもどき」ができる。現行憲法により「婦人参政権」が実現し、当時の婦人会の活動ぶりは目覚ましかった。

あの頃の日本酒には合成酒、2級酒、1級酒、特級酒というランクがあった。「クエン酸」という言葉も聞いたような気がする。人工ワインに用いたのだろう。

当時の農村には「専業主婦」などいなかった。あれは戦後、都市の富裕層や中流サラリーマンの家庭で生まれたものだ。戦前の都市中流層は「女中」とか「家事見習い」と称するお手伝いの娘を、自分の実家がある田舎から雇っていて、行儀見習いを兼ねていた。戦後に作られた映画にも「女中ッ子」(田坂具隆〔ともたか〕監督、1955年)というのがあった。

英国の作家カズオ・イシグロの小説に「日の名残り」がある。大きなお屋敷の執事(バトラー)とメイドを中心にした、貴族であるご主人さまの没落の物語だ。英国でも戦後大きな社会変動があった。

2006年から日本の総人口が減り始め、女性の社会進出が求められており、今また専業主婦が減り始めた。家政婦が家事をするような暮らしは、よほど所得が多くないと無理だろうが…

私は留学中に恩師の奥さんと話ししていて「主婦」を直訳して「ハウスワイフ」と言ったために、手厳しく怒られたことがある。「三食昼寝付き」といわれた日本の主婦と違って、アメリカの主婦は、子供の送り迎え、食料品の買いだし、給油したガソリンの領収書などの保管と確定申告を全部やっていて、立派なパートナーだった。私が全面的に間違っていた。

 

WIKIを見ると、「三重県の名張毒ぶどう酒」事件は1961/3に三重県名張市葛尾地区で発生している。ただ飲んだぶどう酒が本物か、色は赤か白か、それとも人工の「赤ワインもどき」なのかは、この記事にも書いてない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%BC%B5%E6%AF%92%E3%81%B6%E3%81%A9%E3%81%86%E9%85%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

この宴会は「地区の農村生活改善クラブ」の主催で行われており、出席した婦人の多くが毒(猛毒の農薬)入りと知らずに、ワインを飲み死亡している。

ところがメディアはその頃の農村における「生活改善運動」を知らないから、飲んだのが人工の「赤ワインもどき」だったのかどうかを検証報道しようとしない。本物のワインならコルクで栓がしてあるから、開けたらすぐわかる。日本酒のビンやビールビンなら蓋を曲げないで開けることができる。そのやり方はここでは述べない。

敗戦直後には、多くの都市生活者が食料に飢えて、衣類などを持って農村地帯に行き、農民に頭を下げて、物物交換で食べ物を入手した。いわゆる「買いだし」である。農民の中にはこれを「絶好の稼ぎ時」と考えたものもあるが、都市生活者にとっては「屈辱の体験」だった。

葛尾地区に「農村生活改善クラブ」が結成されたいきさつまで踏み込んで、三重県警がきちんと捜査していたら、事件は迷宮入りにはならなかったろう、と私見だが思う。

 

何という偶然だろう。4月末に東京・新宿で開かれる「春の病理学会」の最終日の夜に、獨協医大の小島教授が世話人になって、浅草の「神谷バー」という老舗で少人数の病理学仲間の会「アカデミカの会」を開く予定になっている。食事だけでなく「電気ブラン」という戦後闇市で流行った有名な強いカクテルを賞味する予定だ。

で、彼から電話があったので組成を聞いたら「赤玉ポートワインをベースにブランデーを加えたカクテル」だそうだ。赤い色がついていて、美味しいから飲み過ぎて、目をまわす。だから「電気」という言葉が頭についているのか、と初めて納得した。

「電気ブラン」という言葉は、戦後の「闇市作家」と呼ばれる人たちの小説にはときおり出てくるが、意味がよく分からなかった。それが今でも売られていると初めて知った。

楽しみだが、飲み過ぎないようにしなくては…と自戒している。

〔付記〕行き違いがあり、この会合の開催日を間違えていて、私は出席できなかった。残念でもあり、申し訳なく思っている。

 

カクテルには混ぜ合わせる素材により、いろいろな愛称がついている。英語のカクテル・マニュアル(米国の友人からのプレゼント)も持っていて、若い頃はシェーカーまで買い、カクテルを自作していたのだが、これも「廃用性萎縮」で、ブラディ・マリーとかマルガリータくらいしか名前を思い出せない。