一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

沖縄戦と戦後の沖縄(3)

前回に続いて「沖縄問題」についての私見を述べたい。(これが最終回となる。)

3)沖縄戦とその終了:

  1. 沖縄戦の推移:

これに関しては日本側の記録だけでなく、海兵隊に志願してペリリュー島と沖縄戦に参加し、生きのびて戦後は大学の生物学教授になった第1海兵隊師団兵士(一等兵)ユージン・スレッジによる「ペリリュー・沖縄戦記」(講談社学術文庫, 2008)という貴重な記録がある。執筆は36年後の1981年で、「時の癒しのおかげで、やっと夜中に悪夢で目が覚めることがなくなった。つらい営みだが、やっと自分の体験を書き上げることができた。これによって第1海兵師団の戦友たちに対する責任を果たすことができる」と彼は書いている。

沖縄戦に関しては、日本軍側の記録として

沖縄タイムス社編「沖縄戦記、鉄の暴風」(沖縄タイムス社、1950/8)

林三郎「太平洋戦争陸戦概史」(岩波新書、1951/3)

伊藤正徳他(監)「実録太平洋戦争(5):硫黄島血戦から沖縄玉砕まで」(中央公論社、1960/9)

児島譲「太平洋戦争(下)」(中公新書、1966/1)

文藝春秋(編)「完本・太平洋戦争(下)」(文藝春秋、1991/12)

服部卓四郎「大東亜戦争全史」(原書房、1993/7)

などがある。

なお、那覇郊外の海軍飛行場を死守して玉砕した太田実海軍少将(死後中将)の有名な訣別伝は、山岡荘八「小説・太平洋戦争(8)」(講談社文庫、1987/2)にしか全文が採録されていないので、これも資料として利用する。

1945/3/27に終了した「硫黄島戦」は、もともと日本本土を爆撃したB-29の不時着用飛行場を確保することにあった。テニアン基地までの距離が長すぎるからである。

沖縄本島及び付属諸島防衛のために沖縄には1944/7のサイパン陥落後、第32軍(司令官牛島満中将、兵力3個師団と5個旅団)が配置された。ところが米軍が次に侵攻作戦を起こすのは台湾だと誤判断した大本営は、同年12月下旬、精鋭の第9師団を台湾に転出させてしまった。これで第9師団が構築していた守備陣地の構築は放棄され、姫路に待機していた第84師団の沖縄増援も制海権がなく、大半は海没してしまった。

実質2個師団で沖縄本島の守備に当たって牛島中将(参謀長長勇中将)は、兵力不足により大本営命令の「沖縄中部の北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(現米軍嘉手納基地)を死守せよ」という指示を守ることができず、沖縄南部つまり那覇と首里を結ぶ線に防衛陣地を築いた。

沖縄守備部隊の陸海別の正規軍総兵力は以下の通り、

陸軍:第32軍=6万9199人、

海軍:沖縄方面根拠地隊=約8000人(主に海軍の小禄飛行場を防衛)

総兵力=約7万7199人

当時の沖縄県民数は約57万人、うち島外に疎開した者約10万人、老人や子供の一部は本島北部に避難し、南部に残っていたのは約30万人だった。上記桜澤「沖縄現代史」によると、戦後1950年までに沖縄への引き揚げ者は日本本土から約18万人、台湾・南洋などから約4万6000人で、合計22万4000人に上ったという。

沖縄県の人口は、戦前は1935年国勢調査の数値約59万2500人が最高で、1950年の国勢調査では約69万9000人となっており、沖縄戦による人的損害は数字の上では、5年足らずで回復されたと考えられる。なお、海外在住日本人には「徴兵令」が適用されなかったこともあり、これを利用した「徴兵逃れ」も多かったと指摘する書もある。

沖縄戦については軍に全面協力した当時の沖縄県行政を無視することはできない。沖縄県知事は1943/7より泉守紀(いずみ・しゅき)(当時は任命制)だったが、第32軍参謀長長勇と接するに及びこの「乱暴者で田舎者」と協力することの不可能性を悟り、中央に下工作し、1945/1に香川県知事に転じた。後任には、大阪府内務部長から転じた島田叡(しまだ・あきら)が同年1/12付で沖縄県知事となった。

最後まで第32軍の戦いに協力した島田知事は例外的で、沖縄県のエリートたちの多くは沖縄戦の結末に悲観的でさっさと沖縄から本土に疎開している。(たとえば「大政翼賛会」の沖縄支部長、元那覇市長、県庁の課長クラス、県会議員など:資料=林博史「沖縄戦と民衆」,大月書店、2001/7)

島田沖縄県知事と彼に全面協力した荒井県警察本部長の最後については、八原博通参謀がその手記「沖縄七万の肉弾戦」(文藝春秋編「完本・太平洋戦争(下)」, 1991/12)でこう書いている。

「(1945/6/20頃)島田県知事と最後まで離れず随行した荒井警察部長の二人もうらぶれた姿で軍司令官を訪れ、永遠の別れを告げた。」

この二人がその後どうなったか案じていたが、7/24「毎日」読書欄に「調査情報7-8月号」

(TBSメディア総合研究所)の内容が紹介されており、島田叡(あきら)知事と荒井退造警察部長の最後が報じられていることを知った。さっそく取りよせて読んでみたいと思う。

沖縄戦当時、沖縄に残っていた住民約30万人の中から、兵力補充のため第32軍は、満17歳から45歳までの男子県民約2万5000人を徴兵している。この中には男子中学上級生以上の「鉄血勤王隊」1685人が含まれ、これとは別に女子中学上級生の「ひめゆり部隊」約600人がいる。

逃げ出した泉知事の後任の島田県知事は、「主戦場とならない見込みの沖縄本島北部」に「3月中に10万人の住民疎開させる計画」を定めたが、4/1の米軍沖縄上陸により本島が南北に分断されたため、この計画は完遂されなかった。実移住は約8万人と推定されているが、食糧不足とマラリアのため約2万人が死亡している。

 

2.沖縄における教育の普及:

さて明治12年、「沖縄の廃藩置県」以来、沖縄にも本土と同じ義務教育制度が導入された。その結果、児童の就学率は明治13(1880)年2%、明治20(1887)年6.7%、明治30(1897)年36.8%、40((1907)年92.8%と急激に向上している。この年、小学校は4年制から6年制に移行した。以後の沖縄県の小学校就学率は以下のようになっている。

1920(大正9)年:96.4%

1930(昭和5)年:98.6%

なお沖縄の「文盲」(まったく読書および算術のできないもの)率は1929(昭和4)年の調査値として、4.1%とされている。

就学率と識字率及び民度は相関するから、これらも同様に向上したものと見なされる。ただし、当時の教科書は国定教科書であり、標準日本語の読み書きが教えられた。本土政府による「廃藩置県」により、沖縄県民の識字率が急速に向上したことは否定できないだろう。

沖縄の地元官吏などは積極的に標準日本語の習得に努力したようだ。川村只雄「南方文化の探求」(講談社学術文庫)には昭和14年、沖縄離島の「粟国島」を訪問したら、そこで流暢な標準語を話す安政5年生まれの83歳老人男性に沖縄で初めて出会った、と記してある。

この老人は明治15年、24歳で粟国島の庄屋のような役職に任命され、以後、地頭、島長、郵便局長、村長などの公職を歴任している。島外への留学歴はないので、自学自習によるものであろう。

戦前の沖縄人で明白な反国家活動を行った人物は、寡聞にして現名護市生まれのアメリカ帰りの画家宮城与徳(アメリカ共産党秘密党員)しか知らない。彼は尾崎秀実とスパイ、ゾルゲを引き合わせ、「ゾルゲ事件」で逮捕されている。

これをもってしても、伊波普猷の言うとおり、沖縄人が特に反権力的だという事実はないように思われる。

3.戦時下における国民の意識:

もう一つ、沖縄戦中に、概して沖縄県人が軍に協力的であったことは、4/11付の海軍太田少将の訣別電にもうかがわれる。

「沖縄県民の実状に関しては、県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく…本職…現状を看過するに忍びず、これに代わり緊急ご通知申し上ぐ。

沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海とも防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんど顧みるに暇なかりき。しかれども、本職の知れる範囲においては、県民は、青壮年の全部を防衛召集にささげ、…しかも若き婦は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身切り込み隊すら申し出るものあり。…

これを要するに、陸海軍進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつ、ついに報われることなく、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。…食糧は六月いっぱいを支えうるのみなりという。

沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」

作家の高見順は義兄が通信社にいたせいで、8月7日「広島原爆投下」の翌日に、たまたま東京の新橋駅で出会った義兄から原爆投下のニュースを聞いている。8/9のソ連参戦も長崎原爆投下もほぼリアルタイムで情報に接している。

それなのに8/15「玉音放送」の前に妻とこういう会話をしている。

<ラジオが、正午重大発表があるという。戦争終結について、明日発表があると言ったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜るのだろうか。

それともー 或いはその逆か。

「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」

と妻が言った。私もその気持ちだった。>

高見順にしてこうだから、当時の国民の圧倒的多数は、日本の最終的勝利を信じて、本土決戦に臨むつもりだった。軍部は大本営を長野県松本市郊外の地下壕に移転する用意をしていた。

米政府が「天皇制を残し、これによって間接支配する方が得だ」と判断したのは、本土決戦による損害を恐れたためである。(東京に落とす予定だった三発目の原爆は、日本潜水艦の攻撃により、重巡洋艦もろとも南太平洋の海底に沈んだ。)

海軍軍司令部が「小禄」の地下壕で自決した後、小禄および読谷飛行場は米軍の支配下に入った。同基地は米軍の中距離爆撃機B-24の本土への出撃基地となり、昭和20(1945)年7月28日読谷基地を出撃し、呉軍港を爆撃したB-24爆撃機33機のうち、「ロンサムレディ」号と「タロア号」は広島県西部に墜落し、生存した搭乗員12名は「中国憲兵隊司令部」に送致されたため、8/6のヒロシマ原爆投下により全員が被爆死している。(森重明「原爆で死んだ米兵秘史」潮書房光人社、2016/7)。 これを読むと「世の中、何がどうつながっているのかわからない」という思いにおそわれる。

なおこれら被爆死した米兵の氏名は、「原爆慰霊碑」に収められた死没者名簿に記載されていることを森重明氏の著書で知り、ほっとした(p.185)。

 

 4.いわゆる「自決命令」の問題:

ところで沖縄戦は、1945/3/27に沖縄本島の西にある慶良間諸島に上陸することから始まった。このうち渡嘉敷島ではベニヤ板製のモーターボートに爆薬を取りつけ、夜間敵艦に体当たり攻撃する「海上挺身隊」第三戦隊(戦隊長赤松大尉)が配属されていた。

赤松隊長が軍命令を発して、手足まといの住民に「集団自決」を命じたという伝説が長く流布されてきた。これを最初に報じたのは「鉄の暴風:沖縄戦記」(沖縄タイムス、1950/8, p.34)である。これをそのまま信用し、伝説を増幅したのが、大江健三郎「沖縄ノート」(岩波新書、1970/9, p.208-212)の記述である。

この記述に疑念を抱き、現地に渡り、当時の軍関係者、生き残り島民などから詳しい聞き取りを行い、「赤松大尉が住民に集団自決を命じた事実はない」ことを明らかにしたのが、作家の曽野綾子である。

実状は同じように集団自決が行われた座間味島(海上挺身隊第一戦隊:隊長梅沢海軍少佐)の例から推すと、「集団自決は地元町役場からの指示で行われ、戦後遺族補償のために、隊長命令があったと旧厚生省に(虚偽の)申請をした」ということらしい。この調査は、当初「ある神話の背景」(PHP文庫、19929として出版され、後に「沖縄戦・渡嘉敷島:『集団自決』の真実、日本軍の住民自決命令はなかった」(ワック、2006/5)として改題・改訂出版された。

最近の書物について沖縄戦での「集団自決」の項を調べて見ると、

「赤松大尉からの自決命令は出されていないと考えられる。」(林博史「沖縄戦と民衆」,大月書店, 2001/12)

「集団自決」に触れず。(外間守善「沖縄の歴史と文化」,中公新書、1986/4)

と修正または無視している。

強制的な命令はなかったが、沖縄本島読谷村の波平地区で、ガマ(壕)に避難していた島民の集団自決事件が2件起きている。同じ地区で起きたこの二つの事件は対蹠的であり、「集団自決」がなぜ起こったかを考える上で重要と思い、以下に紹介する。

チビチリガマ事件=避難していた住民140人のうち、4/1最初に竹槍を持って出た4人が米軍の機関銃で射殺された。翌4/2に洞窟内で、元中国従軍兵士と同じく元従軍看護婦が主導して、毒薬による自決が行われた。但し二人は「出たい人は出なさい」と指示し53人が洞窟を出て米軍に投降、実際に自決した者は83人だった。

シムクガマ事件=約1000人の住民が洞窟に避難していたが、なかにハワイ帰りの住民が二人いて、「米軍は捕虜を殺さない」という彼らの説得に全員が応じ、ガマを出て米軍に投降した。英語が通じたのも役に立ったかと思われる。

以上のように、ほんのちょっとした情報の有無が住民の運命を左右しており、「軍命令で集団自決が行われた」というのは、曽野のいうように「神話」だといえよう。

沖縄本島への米軍上陸作戦は1945/4/1のことで、防衛する第32軍は、硫黄島の戦訓に学び縦深の防衛陣地を構築し、敵の上陸を水際で叩く戦法を採用しなかった。ところが八原参謀が「戦後米軍司令部の一将校より聞いた話」として書きとめている手記によると、「米軍が嘉手納沿岸に上陸した時、日本軍から突撃してきたのは竹槍で武装した女兵士二人だけだった」という。「女と侮り油断した一将校は、胸部を刺された」という。

私見では、この事件が、その後「たとえ竹槍であれ、武装した日本人を無条件に射殺する」という米軍の行為を誘発したのではないかと思う。「チビリガマ事件」で最初に竹槍を携えて洞窟を出た住民4人が射殺されたのは、これと関連しているように思われる。

 

5.参謀部における作戦の齟齬

沖縄の陸軍第32軍参謀部では「戦略持久」を唱え、本土決戦のための時間稼ぎをすべきだという八原博通高級参謀(大佐)と決戦を唱える参謀長長勇(中将)の間に和解しがたい対立があった。八原は1944/3に第32軍参謀(作戦担当)になっているが、長が参謀長として赴任したのは1944/7だった。

長参謀長は八原参謀の「戦略持久」案を押さえて、4/8第一次総攻撃、4/12第二次総攻撃、5/4第三次総攻撃と攻勢を主導し、沖縄防衛軍はその度に多大の損害を被り、5月24日には首里防衛線が崩壊し、第32軍は沖縄南東部の喜屋武半島の復郭陣地に撤退した。以後、海岸の洞窟内で、牛島司令官、長参謀長が6/23払暁に自決するまではもはや時間の問題だった。

八原参謀はアメリカ留学経験もあり、米軍をよく知っていた。当初、沖縄学童の九州への疎開を計画したが1944/8沖縄の学童ら約1700名を乗せた「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されるという悲劇が起き、九州への疎開は不可能になった。そこで次善の策として、主戦場にはならないと予想される沖縄北部への移住策を奨励したが、「戦いの勝利を信じ、軍に頼っていた一般市民は軍が考えるほど事態を深刻に考えず、移転を嫌う自然の人情もあって」移転は計画通りに進まず、首里攻防戦が始まって、住民が一挙に南部地区に避難したので「あの惨苦と犠牲を生じる原因になった」と述べている(八原博通「沖縄七万の肉弾戦」、『完本・太平洋戦争(下)』, 文藝春秋,1991/12)。

第32軍が三度目の総攻撃に失敗し、兵力を著しく損耗した後、南部の喜屋武地区に立て籠もることなど、沖縄県人はだれも予測していなかったのだ。

硫黄島戦における栗林中将のように、あらかじめ戦闘予定地区から島民を避難させておけば、沖縄戦における民間人の損害は最小限に抑えられたはずである。

沖縄戦では「特攻隊」による航空総攻撃も行われており、

海軍=1,637機、 陸軍=934機が出撃。合計2,571機である。

他に戦艦大和など「水上特攻」による艦船・乗組員の損失もある。

「沖縄戦」における日本軍及び民間人の損害に関しては、これらに特攻機や水上艦艇の損害を含めるかどうかで、統計数値がまちまちである。

沖縄戦闘時の「沖縄県民人口」は定かでない。

 

沖縄戦における日米の損害は、

日本軍の損害=戦死約11万人(島民義勇兵、防衛召集隊を含む)

沖縄県民の死亡=約10万人(集団自決を含む)

米軍の損害=戦死・戦傷合わせて6万人

というところが、妥当な数値ではないか、と考えている。

 

1940年の沖縄県人口は57.5万人であり、沖縄県民および軍属の約11万人(約19%)が沖縄戦の犠牲者となったと考えられる。

ただ沖縄戦は八原博通参謀が考えたような『本土防衛』にはまったく役立たなかった。米軍はすでに『マンハッタン計画』に基づいて、原爆投下作戦を決め「広島・小倉・長﨑・新潟」を原爆投下目標として、テニアン島の基地からB29を飛び立たせる作戦を策定していたからだ。

要するに米軍にとっては、B-29の不時着基地として中飛行場(後の嘉手納基地)を確保したにすぎなかった。

 

4)サンフランシスコ講和条約(1951)と沖縄の米信託領化:

8/15の昭和天皇による「ポツダム宣言の受諾表明」と9/2東京湾上の戦艦「ミズーリ」における降伏文書への調印のあと、沖縄諸島は米軍の軍事占領下に置かれた。

但しこのうち、北緯30度線以北の種子島、屋久島は1946/1/29に沖縄から分離され、日本に返還されている。

1951/9に「サンフランシスコ講和条約」が成立すると、米国は同年12/5に悪石島、宝島を含む薩南諸島を日本に返還した。さらに1953/12/25には、クリスマス・プレゼントとして、喜界島から奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島をふくむ、奄美群島を日本返還している。

 沖縄に「琉球政府」が樹立されたのは、1952/4である。以後、米軍政下にある「沖縄」と日本本土は別の国とされ、相互の渡航にはパスポートが必要とされるようになった。(1960年、大学医学部入学の私のクラスには、垣花とか玉城といった沖縄姓の国費留学生の友人が何人かいた。)

1964/8に「トンキン湾事件」が起こり、米駆逐艦が「北ベトナム」から砲撃されたことを理由にベトナム戦争が始まると、沖縄の「米軍基地」としての重要性が高まり、米政府からの沖縄の施政権返還は1972/5/15まで遅れた。

 

5)沖縄の本土復帰と米軍基地: 

念願の「沖縄本土復帰」は1972年5月に行われ、戦後の「沖縄県」はこの時初めて誕生した。この時の首相佐藤栄作は、後に「戦争によらず、平和裡に領土復帰をなした」功績をかわれて、「ノーベル平和賞」を受賞している。

ベトナム戦争は1975/4ニクソン大統領辞任の後を引き継いだフォード大統領が4/23「ベトナム戦争終結」を宣言、これを受けてベトナム人民軍がサイゴンに入城し、戦争はこれで最終的に決着した。

その後は沖縄と本土との所得格差、沖縄における米兵の暴行問題、本土復帰時の「核密約問題」(西山太吉「沖縄密約:<情報犯罪>と日米同盟」、岩波新書、2007/5)などが、後を引いて残った。(柳沢誠「沖縄現代史」中公新書、2015/10)

 

本土復帰後の沖縄県知事は

1.屋良朝苗(1968/11=主席当選、本土復帰後1972〜76初の沖縄県知事、革新)

2.平良幸一(1976/6〜1978/11、病気により辞任、沖縄社会大衆党)

3.西銘順治(1978/12〜1990/12、自民党)

4.大田昌秀(1990/12〜1998/12、社民党)

5.稲嶺恵一(1998/12〜2006/12、自公連立候補)

6.仲井真弘多(なかいま・ひろかず) (2006.12〜2014/12、元通産官僚)

7.翁長雄志(おなが・たけし) (2014/12〜現在、法政大法卒、元那覇市長)

となっている。沖縄の県知事は、保守と革新の間で揺れ動いている。

 

沖縄の戦争被害者感情や独立論には根深いものがあり、

1975/7月、「沖縄海洋博」の際に昭和天皇の名代として「ひめゆりの塔」を参拝した皇太子夫妻に火焔瓶が投げつけられた事件、1987/9月開催の沖縄初の国体では、天皇が「体調を崩して」、皇太子夫妻が名代として出席するという事件、同年10月の「海邦国体」の読谷ソフトボール会場では「日の丸焼き捨て事件」などが起こっている。

 

櫻澤誠「沖縄現代史」(中公新書、2015/10)を読むと、2009/9に成立した民主党「鳩山内閣」の普天間基地移転についての「最低でも県外」という発言の影響が大きいと思う。

かつて沖縄県読谷(よみたん)村にあった陸軍の「中飛行場」は米軍に占領され、アジア最大の「嘉手納基地」になった。

普天間飛行場は、沖縄占領後に米軍が宜野湾市に建設したもので、1945年に2300mの滑走路を備えた空港として開設されている。基地開設当時は、周囲はほとんど無人であったと推定されるが、その後、宜野湾市役所、市立宜野湾中学、沖縄国際大学、市立博物館などの建設が行われ、基地そのものが市街地のど真ん中にあるという異常事態が発生した。

 

1995/9に発生した「米海兵隊員による12歳小学生女児の拉致強姦事件」は沖縄だけでなくひろく本土国民の「反沖縄米軍基地」感情に火をつけ、沖縄駐在米軍に特権を与える「日米地位協定」の見直しが進んだ。2004/8には普天間基地の大型ヘリが沖縄国際大の建物に墜落するという事件も起こった。

これらを受けて、2009/9に誕生した民主党の鳩山由紀夫内閣は、普天間基地の移転について「最低でも県外」という発言を繰り返し行った。

2013年における沖縄の米軍基地占有面積(単位ヘクタール)は

普天間飛行場: 481

北部訓練場:7,513

安波訓練場:480

ギンバル訓練場:60

楚辺通信所:53

読谷補助飛行場:191

キャンプ桑江:107

瀬名波通信施設:61

牧港補給地区:275

那覇港湾地区: 57

その他(住宅):648

となっている。(櫻澤誠「沖縄現代史」,p.254)

これらの米軍基地は他方で基地従業員・労働者の雇用、米軍兵士の消費などにおいて、沖縄経済に影響を与えていると思われるが、それについて分析した資料が見つからない。

 

沖縄の米軍基地の中でも、「普天間飛行場」はその面積においても、住宅地との密接度においても(たとえ住宅地が基地開設後に開かれたとしても)、沖縄県民にとって移転が「喫緊の課題」となったことは十分に理解できる。

ところが、1997/1月日米政府が普天間基地の「名護市辺野古沖」で合意に達すると、不思議なことに1/27辺野古住民の「反対決議」に続いて、名護市、沖縄県の反対運動が起き、現在に至るまでこの問題は一向に解決していない。

以上で客観的ないし中立的な記述を終わる。以下はあくまでも私見である。

 

入手可能な「沖縄史」を読むかぎり、沖縄人は多分に自己中心的で、世界史の中での「沖縄」の相対化ができていないように思われる。

たとえば、「日清戦争」において清国に共感する沖縄島人が多かったという。仮に明治12年の「沖縄廃藩置県」がなければ、沖縄はどういう運命を辿っていたのか?これについて、沖縄学者による確固とした見解は一切ない。沖縄の「廃藩置県」により、県民の就学率・識字率が著しく向上したことは事実だ。反併合論者はこの数値をどう考えているのか?

1995年に、沖縄県が摩文仁に建立した「平和の礎」に23万4000人の犠牲者の氏名が刻まれたが、このうち沖縄県出身者については「満州事変に始まる15年戰争の期間内に県内外において、戦争が原因で死亡したもの」「1945年9月7日以降において、戦争が原因でおおむね1年以内に死亡したもの」を含む14万7110名だという。これはフェアーか? ダブル・スタンダードではないか?(櫻澤誠「沖縄現代史」p.267-268)

沖縄問題を真剣に考えようとするものは、これら不可解な問題に、自答しなければならない。

なお、沖縄がこの慰霊碑に沖縄の米兵戦死者1万4005名を加えた(櫻澤誠「沖縄現代史」p.267)のは特筆するに足る。作家の長谷川伸は太平洋戦争中に多発した、日本軍による捕虜虐待に抗議して「日本俘虜志(上・下)」(中公文庫,1979/11)執筆した。広島の中国憲兵隊司令部が、被爆米軍捕虜を医療施設のある似島陸軍病院に搬送せず、医療も行わず相生橋の欄干に針金で括りつけて放置、死なせたのは、「戦時国際法」違反だと思う。(ある米映画にはドイツ都市爆撃を行ったB-27が帰路、ドイツ空軍に襲撃され、重傷を負った味方機銃手をパラシュートでドイツ軍陣地に投下させるという場面が出て来る。負傷兵の治療をドイツ軍に委ねたのだ。)

 

さて沖縄問題の将来を考察しようとするものにとって、避けられない疑問を以下に記す。

①沖縄県人は、本当に日本本土から独立したいのか?

もしそうとすれば、「旧宗主国」の地位を取り戻したいと虎視眈々としている「中華帝国主義」に対して、どのように自己防衛をするのか?その覚悟と自主防衛の能力は沖縄県にあるのか?

②逆に、「日本本土との一体化」を目指すのであれば、ある程度、南西日本が置かれている危機的な現実を認識し、沖縄経済が米軍駐留により潤っていることを認め、柔軟で現実的な対処法を考えるべきではないか?

門外漢である小生には、普天間基地の辺野古移転問題が、どうしてこれほどこじれるのか、さっぱり納得がいかない。

 

6)沖縄問題、総括的私見:

守礼門(棚橋)IK君への回答にはなっていないかも知れないと思うが、以下に一応回答したい。

「6/23の沖縄慰霊の日」がなぜ全国的に盛り上がらないのか?という理由は、沖縄の頑なな態度に他の日本国民がほとほと嫌気がさしているからではないかと思う。

同じことは日本の原発を無視した被爆者の「核兵器廃絶運動」にもいえる。最近、中国の集近平を説得に訪れた米大統領の特使が、「北朝鮮の挑発行動を抑制して欲しい。さもないと日本は、その気になれば一晩で実戦用核兵器を開発できる」と述べたと伝えられた。

 

私はこれを事実だと思う。広島に投下する「リトルボーイ」型原爆が、実際に起爆可能となったのは「エノラ・ゲイ」号がテニアン基地を発進した後で、パーソンズ大尉が原爆に起爆装置を機上で取り付けてからである。(R. Rhodes「The Making of the Atomic Bomb」,

Simon & Sheustuer, 1986, p.706)

日本にはすでにプルトニウム原爆6000発分の使用済み核燃料が蓄積されているという。恐らく爆弾の外殻や「爆縮装置」の開発は別途研究が進められているだろう。プルトニウム原爆の本体をあらかじめ製造しておき、臨界状態を引き起こす「爆縮装置」を発射/投下直前にとりつける「パーソンズ方式」なら、基地の貯蔵原爆はまったく安全で、一晩で爆発可能な原爆弾頭に変えることができるだろう。

「唯一の被爆国」のスローガンがいつまでも通用する保証はない。

 

だが、6つくらいの団体に分裂した被爆者団体は、こうした動きにあまりにも鈍感だ。

東京電力が技術的にはより容易で、コストも安い「石棺方式」での福島第一処理を避けようというのも、「チェルノブイリ原発」と同じレベルの事故で、同じ処理をしたと言われるのを避けようとしているだけだ、と思う。だが「凍土壁」は無理だと私は思う。

チェルノブイリ原発の石棺工事にも携わった、東京の江口工先生は著書「地下放射線汚染と地震」(オークラ出版、2012/3)を通じて、「福島第一も石棺工事がベスト」と主張されているが、聞く耳をもたないのが、政府と東電である。

 

伊波普猷は明治40年に「…多くの思想に接して、今後の沖縄が今まで見ることのできなかった個人を産出するのは、わかりきったことだ。」と書いたが、どうもその後の沖縄史を見ると、「長期的な観点で<戦略的思考>ができる沖縄人を生みだしていない」という感が否めない。

ぜひそういう個人の出現を期待したいものだ。

 

<7/29追記>7/29「産経」は、沖縄県が米ワシントンDCに「在米事務所」を構え、沖縄の米軍基地撤去のためのロビー活動を行っているが、実質は現地のコンサルタント会社に「丸投げ」であり、現地事務所費約7369万円のうち、93%がコンサル会社への委託料になっていると報じた。沖縄がそんなに豊かな県だとは知らなかった。

翁長知事は、本当に米軍基地の存在が、沖縄県の経済・民政の両方を阻害していると主張するのであれば、偏らない学者・識者グループによる「沖縄白書」を作成して、ぜひとも公表することを願いたいものだ。もちろんそこには「自主独立」後の、沖縄百年の計も含まれる。