一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

沖縄問題(2)

前回に続いて「沖縄戦の終結日がなぜヒロシマと同じように慰霊の対象とならないのか?」というIK君の疑問に答えるべく、引き続いて沖縄の歴史における、いわゆる「琉球処分」について私見を述べたい。

明治維新前後といわゆる「琉球処分」:

 1609年の「薩摩の琉球征伐」以後、大陸では清が勃興し1644年明が滅び、鄭成功が台湾に逃れ「明復興」の運動を起こす。他方、江戸幕府は1639年、「寛永の鎖国令」を出し、日本の鎖国体制が完成している。ポルトガルとの貿易港平戸は閉鎖され、長﨑の出島を通じてオランダ・中国との通商のみが許された。

李氏朝鮮は元もと沖縄との通商に関心がなく(朝鮮も鎖国体制に入っていた)、明が滅亡し、満州起源の清朝に取って代わったことは、沖縄の貿易に大きなマイナスとなり、沖縄の第二尚氏王朝の財政は破綻状況となる。

こうして衰亡しつつ、沖縄王朝は幕末を迎える。

 

西洋諸国の沖縄来訪は1816年、朝鮮を訪問した後に英国海軍のフリゲート軍艦2隻(アルセスト号とライラ号)が薩摩・硫黄島から島伝いに南下し、同年9月9月16日、沖縄本島の那覇港に入港したのが最初である(ベイジル・ホール「朝鮮・琉球航海記」,岩波文庫)。

ホールはライラ号の艦長で、詳しい航海記を残した。それによると最初に訪問した朝鮮では艦の召使いが話す中国語がまったく通じなかったが、那覇港では船にやってきた下級役人に中国語が通じたという。

好奇心に駆られた多くの住民がカヌーで艦に押しよせて来て、壺入りの水やふかしたサツマイモを提供したが、友好的で代金の請求などはしなかったとある。カヌーの大半は丸太の刳り船で、帆が2枚あり、舳先と艫(とも)にオールを備えていたが、フロートの付いたアウトリッガー・カヌーではなかった(上掲書P.98)。

ジャレド・ダイアモンド「銃・病原体・鉄(上・下)」(草思社文庫)は、アウトリッガー・カヌーの起源が南中国にあり、これが紀元前4000年頃に台湾原住民に伝わり、ここからオーストロネシア語の原語を話す原住民が、BC3,500頃に南方に移住を始め、フィリピン、インドネシア、ポリネシアに広がり、ついにはハワイ島まで拡散したと指摘している。「南大平洋の航海者」はフロート付のアウトリッガー・カヌーを用いたから長距離航海が可能となったのだ。

 

ハワイのオアフ島ホノルルにはワイキキの浜近くに「ホテル・アウトリッガー」がある。ここは日系人における悪性リンパ腫の発生率と病型分布を調べるために、私がホノルルに長期滞在した時に泊まったホテルだ。(日本人での発生率は米白人の約1/2。私の調査では、ハワイ日系人でも、日本人と同様の発生率で、病型分布も日本人型で、環境よりも遺伝の影響が多いと推定された。)

 

アウトリッガー・カヌーがあれば北方への航海も安全になるから、沖縄への波及も当然予測されるのに、ベイジル・ホールの航海記では沖縄では「丸木の刳り船」を用いていたという。不思議だが、台湾から北方へのオーストロネシア語の波及はなかったと結論される。

 

1.<元寇の問題>

ジンギス・カーンの後を受けたモンゴルが国号を「元」改め、高麗と連合して北九州に侵攻した「文永の役(文永11=1274)」が起こったのが、鎌倉幕府の執権北条時宗の時代である。

この「第一次元寇」では、軍船約1000隻、2万人が襲来したが、台風で船を破壊されて生き残ったものはほとんどいなかった。

元は、1279年に「南宋」を滅亡させ後に、日本征服のために「征日本行省」という省を新設し、旧南宋地域の人民を中心に「江南軍」を編成、北からの元・朝鮮連合軍と南からの江南軍の二手に分かれて、1281(弘安4)年、再び九州の平戸を侵略した。軍船総数は約4000隻、総兵力は14万人だった。この時の兵士の多くは「屯田兵」になる覚悟で、農機具や種子を携行していた。前回の侵攻は11月で場所は博多湾だったので、今回は時期を4ヶ月早め、平戸を目指したのだが、同様に猛烈な台風に襲われ、艦船のほとんどが沈没した。

 

何かの史書で、この頃、元軍が沖縄を侵略したという記述を読んだのだが、どの本だったか忘れた。その後、よく見ると外間守善「沖縄の歴史と文化」の年表1296年の条に説明抜きで挙げられていたが、本文には記載がない。

このことは伊波普猷「古流球」、西嶋定生「古代アジア世界と日本」(岩波現代文庫)、「元史日本伝」(「倭国伝」講談社学術文庫所収)にも書いてない。

13世紀の沖縄ではまだ文字が普及していなかったので、外間が依拠した文献が不明である。

 

2.<洗骨の問題>

沖縄の葬制に関して、新井白石「南島志」は、

「屍を渓水に浸し腐肉を除去し、遺骨を回収して布で包み、山中の洞穴に収める」

と、洗骨の風習を記載している。これは中国の文献からの引用である。

上記ベイジル・ホールは実際にサンゴ礁の島の崖に沢山の四角い穴がうがたれ、石の蓋がしてあるのを観察している。それによると、なかにひとつだけ石蓋がはずれたものがあり、覗いてみると、砂に埋もれて何体かの人骨があったという。ある穴の石蓋を外して中を見たら、洞窟内に大きな優雅な形をした瓶があったという(中身は確認していない)。

もう一つ王侯貴族の墓として馬蹄形をした大きな「亀甲墓」(沖縄では「カーミナクーバカ」と呼ぶ)があることを指摘し、これが中国に由来する文化だと述べている。

洗骨には海岸の浜辺に埋葬した遺体を3年後に掘り出して、骨から腐肉をそぎ落とし、骨だけをきれいに洗って、瓶に収めて墓に入れるというケースもある。いずれにせよ、この洗骨作業は女性の仕事とされた。

 

琉球大学文法学部の教授・赤嶺正信によると、琉球に亀甲墓が出現するのは17世紀後半で久米島の中国系人が最初に造ったそうだ。戦後火葬が普及してきたので洗骨の風習は急速に廃れたが、彼が住む沖縄本島南部には今でも残っていること、火葬場のない離島では洗骨が今も残っているところがある、という。(国立歴史民俗博物館編「葬儀と墓の現在」, 吉川弘文舘, 2002/12)。

1816年に沖縄を訪問したベイジル・ホール艦長は、沖縄で誕生して間もない頃に亀甲墓を見物したわけである。

 

いずれにせよ、この沖縄独特の風習である「洗骨」については、沖縄の知識人が「蛮習」として恥じているのか、伊波普猷(外間守善校訂)「古琉球」(岩波文庫)、外間守善(ほかま・しゅぜん)「沖縄の歴史と文化」(中公新書)には記載がない。

川村只雄「南方文化の探求」(講談社学術文庫)には、「琉球における洗骨」(p.86-88)、「奄美諸島の洗骨」(p.284-289)、「粟国島・渡名喜島の洗骨」(p.426-430)という項目がある。本書の主要部は昭和14(1939)年に書かれ、著者の川村(立教大学教授)は山口県生まれである。

川村が「洗骨の風習をやめ、火葬にするように」と沖縄各地の講演で述べると、必ず聴衆から「洗骨は親に対する最後で、最高の孝行だ」という意見が出るので、「それでは日本国中で<最後で最高の親孝行>をしているのは、琉球とその支配下にあった奄美だけで、あとの一道、三府、四十二県のものは全部親不孝をしていることになるが、果たしてそうか?」と反問すると、たいてい「それでは他府県では洗骨をしないのでありますか!」と驚かれたと書いている。

 

進化論的視点のある川村の記述を読むと、沖縄諸島における葬制が、風葬—洗骨葬—火葬と進化してきたことがわかる。元もと洗骨の風習は、墓地を無制限に認めると耕地面積が減少することを心配して、琉球のある大政治家が奨励したものだという伝説があるそうだ。

キリスト教の欧米でも火葬が主流になりつつあるのを見ると、合理主義(熱力学第二法則に従うこと)が支配的になると、世界中どこでも葬制は同じようになるだろうと考える。

私はルーマニアで(吸血鬼)ドラキュラ侯爵のワラキュラ城を見物した後、山道をハイヤーで旅していて、日本の明治時代のような長い葬式の行列に出くわしたことがある。あれはカルパティア山脈中の片田舎の農村だった。

 

1816年、ホール艦長らの英国海軍の軍艦2隻が琉球に入港して以後、フランス海軍や米艦の帰港が相継ぎ、沖縄が外交上の危機を迎えたことは「近世沖縄史」に書いてない。

1853年、浦賀に来港した米使節団長ペリーと江戸幕府は「日米和親条約」を結んだ。翌54年にはペリーが那覇に来航し、薩摩の指導の下「琉・米和親条約」が結ばれている。

1858年、「日米修好通商条約」が結ばれると、翌59年に、琉球は「琉・蘭修好条約」を結んでいる。この時点で、日本政府は「阿片戦争」の轍を踏み、領土の一部が植民地化されるのを防ぐのに全力をあげていた。放置しておけば沖縄も同様の運命に陥る危険性があった。

 

1867(慶応3)年の12月、京都の公家の中の革新派が「大政復古」の号令を出し、翌慶応4(明治元、改元は9月8日)年1月には鳥羽伏見の戦いが起こり、勝海舟と西郷隆盛の話し合いにより4月11日、江戸が無血開城された。上野での「彰義隊の乱」はその余波である。

会津藩と越後長岡藩が中心になった「奥州戦争」の後、脱走した旧幕府海軍が主力となった「函館戦争」が明治2(1869)年5月に終了すると、新政府の「中央集権化」政策は急速に進んだ。

「大政奉還」は実質的には封建領主としての将軍の実権を天皇(新政府)に返却することを意味していた。すると将軍から冊封を受けて成立している各藩の「藩主の権威、領土」も無効ということになる。これを受けてまず1月、薩長・土肥の4藩が「版籍奉還」を政府に申し出た。幕藩体制を一新するには「廃藩置県」はどうしても必要だったが、新政府には実行できるだけの人物がいなかった。

そこで郷里鹿児島に引きこもっていた西郷隆盛を呼び戻し、彼に実行を一任した。西郷は薩摩・長州・土佐の藩兵を「親兵」(政府の直轄軍、明治5年「近衛条令」により「近衛兵」となる。「近衛師団」の起源)とした。自ら総大将(総司令官)となり「たとえ、出身藩に弓を引くことになっても、総司令官の命令には従え」と訓示した。親兵の兵力は約1万人だった。こうして明治4(1871)年7月14日「廃藩置県の詔書」が出され、これに不満の旧藩主(藩知事)も、武力を背景にしたこの布告に従うほかなかった。

 

琉球が正式に藩となるのは、明治5(1872)年のことで、これには背景事情がある。

明治4年、台湾に漂着した「琉球王国」宮古島の住民54人が、台湾の原住民に虐殺された。これに対して琉球王国政府は何の抗議もしなかった。「住民殺害」の報は明治5年7月28日になって新政府の知るところとなった。台湾出兵と日清戦争の淵源は実にこの事件にある。

明治5(1873)年、通報を受け特命全権大使として清国に赴いた外務卿副島種臣は清国政府と交渉したが、清国は「台湾は化外の地」として実効支配している領土であることを否定、賠償責任も認めなかった。

これを受けて新政府は明治5年、まず琉球王国を「琉球藩」とし、国王を「琉球藩主」とした。ついで武力を整え、明治7(1874)年5月台湾への出兵が行われた。明治6年に行えなかったのは、岩倉具視らの「遣欧使節」が海外歴訪中に「留守政府」が西郷隆盛の「征韓論」を巡って真二つに分裂し、急遽、岩倉具視、大久保利通らが帰国して危機に対処するという異常事態が発生したためである。

また同じ明治6年には岡山藩倉敷の漁船が台湾に漂着し、乗組員4人が原住民から略奪を受けるという事件も起こっている。

 

台湾征討軍を率いたのは鹿児島県出身で西郷隆盛の弟、西郷従道である。出兵に先立って「台湾蛮地事務局」が設置され、その「事務都督」に西郷従道が任命されている。宮古島の漂着民を殺害したのは台湾南部の原住民結社「牡丹社」だった。西郷は派遣軍3600名を率いて、台湾南部に上陸した。

この海外派兵の結果、戦死者は12名だったが、マラリアなどの風土病により561名の死者が出た。台湾南部は数ヶ月で日本軍の統治下に入った。

これに対して清国は出兵に抗議したが、最終的に遭難民に対して10万両(テール)の見舞金と台湾の諸設備改善費として40万両を支出することを提案して、琉球が日本領であることを認めた。これを受けて日本は同年12月に台湾から撤兵した。

 

翌、明治8(1875)年、日本政府は琉球に対して内務大丞松田道之を首里に派遣し、「清との冊封・朝貢関係の禁止」、「明治年号の使用」を命じたが、琉球政府はつよくこれに抵抗した。これが明治12(1879)年3月の「琉球処分」の伏線になっている。

明治12年3月11日、政府は琉球に対して「廃藩置県」を通達、ついで内務大書記官松田道之が2個中隊を率いて那覇に乗り込み、3月31日、首里城を接収した。

第二尚氏王朝十九代目の王昌泰は「華族となり東京に住む」という条件を受け容れ、廃藩置県に賛同した。これで琉球藩が廃止され「沖縄県」が誕生し、初代の沖縄県令には佐賀の鍋島直彬が任命された。松田直道は軍隊以外に、官吏や警官を多く同行しており、彼らが鍋島県令直属の部下となったので、沖縄県の行政は実質的には本土政府の直轄に近い形となった。

これがいわゆる「琉球処分」である。

 

これに対して清国が「琉球の廃藩置県は承認できない」と抗議して来た。清は従来どおり、琉球に対する「冊封体制」を維持したかったのである。清は「宮古島島民の台湾遭難」の時、「台湾は化外の地」として責任を回避し、台湾出兵後は「琉球の日本帰属」を承認したので、それ以上つよくは出られなかった。

翌明治13(1880)年、日本政府の閣議は「旧琉球のうち宮古島、八重山島の2島を清国に割譲し、それ以北を日本領とする。それと引き換えに、清国が西洋諸国に認めている最恵国待遇を日本にも適用する」という条約案を決定し、清国政府に案文を提示したが、清国の大臣李鴻章がつよく反対したため、清国側は調印しなかった。このため交渉にあたった駐清公使宍戸璣は明治14(1881)年1月「条約案件については、今後日本政府は自由な処置をとる」と通告し、沖縄の分割問題は避けられた。

しかし、琉球問題と清国の朝鮮進出は共に日本の利害と密接に絡んでおり、これが最終的に決着するのは明治27(1894)年の「日清戦争」によってである。この時「下関条約」で全権大使として、清国を代表して休戦条約と講和条約に調印したのがあの李鴻章である。

以上が「琉球王国」が消滅して、「沖縄県」となった経緯である。

 

この琉球の廃藩置県について、沖縄出身の民俗学者伊波普猷は「古琉球」(岩波文庫)において、沖縄においては血族結婚が盛んに行われたため、人も動物も退化し、ダーウィンのいう「島嶼化現象」が起こり、どちらも小型になったとして、

「明治12年の廃藩置県は退化の途をたどっていた沖縄人を再び進化の途に向かわしめた」、「思想面においても数百年来、朱子学に中毒していた沖縄人が、生きた仏教、陽明学、キリスト教、自然主義など幾多の新思想に接した。…多くの思想に接して、今後の沖縄が今まで見ることのできなかった個人を産出するのは、わかりきったことだ。…

旧琉球王国は確かに栄養不良だった。…半死半生の琉球王国が破壊され、琉球民族が誕生したのはむしろ喜ぶべきことである。われわれはこの点において、廃藩置県を歓迎し、明治政府を謳歌する」(p.92-94:大意)

と書いている。

これは明治42年12月12日「沖縄新聞」に掲載され、昭和17年に刊本とするために改稿された「進化論より見たる沖縄の廃藩置県」と題する伊波の論文からの引用である。

今度の参院選で沖縄地方区から無所属新の伊波洋一(元宜野湾市長、沖縄大卒、61)が自民現職の沖縄北方問題担当大臣・島尻安伊子を破って当選したが、ひょっとすると「古琉球」を書いた伊波普猷の子孫かもしれない。伊波は京都の第三高等学校を卒業後に東京帝大文学部言語学科に入学し、明治39(1906)年に卒業した後は郷里那覇に戻り、沖縄民俗学の資料・文献の収集に全力を投じた。後に沖縄県立図書館長にもなっている。

 

太平洋戦争において、沖縄は日本の固有領土において、唯一の地上戦闘が行われた県としてひろく認識され、戦後の沖縄人の著作では「尚氏王朝の滅亡と沖縄県の誕生」をうらむ声が高い。(たとえば外間守善「沖縄の歴史と文化」,中公新書)

だがそれは、「広島に原爆が落とされたのは第五師団があり、戦争中は中国軍管区司令部が置かれ、宇品港が重要な輸送基地になっていたからだ。つまり日清戦争・日露戦争以来の軍都だったからだ」という議論と似ているように思う。

確かに沖縄には強力な「皇民化政策」が実施され、島民は徹底して軍国主義をたたき込まれた。だがそれは「沖縄人」の責任について免罪符を与えるものではないと私は思う。

次回は第3回として、「沖縄戦と戦後の沖縄」について概略を述べたい。