一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

曲解された2つの日本改造計画

日本の改造案といえば2・26事件で死刑になった北一輝『日本改造法案大綱』(1919)が有名だが、私は未読である。
田中角栄『日本列島改造論』(日刊工業新聞社, 1972)の源流が、その若き日にめぐり逢った理研の創設者、子爵大河内正敏の「農村工業論」に影響を受けていると知った。事実、大河内は新潟県柏崎に理研の軍用「ピストンリング製造工場」を設置していた。ここは爆撃も受けず、戦後はすぐに民需用のピストンリングを製造している。
田中角栄挿絵 早野透『田中角栄』(中公新書)によると、通産官僚のうち大臣秘書官小長啓一、若手官僚の堺屋太一、武村正義らや政治秘書の早坂茂三らが田中のレクチャーを聞いたのちに、分担執筆したらしい。
第2章に「明治百年は国土維新」という歴史的総論がある。おそらく堺屋太一が執筆したのではないかと思うが、「明治期の工業は別子銅山や八幡製鉄のように、資源産出地に重工業が設置されたが、第一次大戦後は大都市の近くで、港湾施設が整っていて消費者に近いところに、工業団地が生まれた」と述べている。
戦後の産業復興もまた「工業地帯」の創生によりおこなわれ、その結果、面積では国土の1%を占めるにすぎない東京・大阪・名古屋都市圏に全人口の32%が住むという異常な「都市化」が生じたと指摘する。
つまり工場や会社が都市圏に集中した結果、都市の巨大化が生じ、これがさらなる人口吸引サイフォンとなったのである。

「許容量を超える東京の大気汚染」「時速9キロの “くるま社会” 」「5時間で焼けつくす東京の下町」「一人あたり4畳半の住宅」「過疎と出かせぎでくずれる地域社会」という項目タイトルなど、今もそのまま当てはまる。
新幹線や高速自動車道を整備して、人口の都市集中という流れを逆転させようというのが、角栄の「日本列島改造論」の中心思想であり、その根幹には「人間の一日の行動半径に比例してGDPと国民所得は増大する」という、おそらく角栄グループにオリジナルと思われる「観察」がある。

石原かんじ挿絵理化学研究所が大河内所長のもとで急速に発展したのは、角栄が理研と関わりをもち始めた1937(昭和12)年以後のことだ。この頃、理研は傘下の工場を急速に増やして、「理研コンツェルン」と呼ばれている。
大河内の「農村工業論」は、石原完爾『最終戦総論・戦争史大観』(中公文庫, 1993)でも言及されている。石原は昭和16年2月に執筆した「戦争史大観」で、約30年後に想定される(彼は日米開戦に徹底的に反対だった)「世界最終戦争」に備えて、国土の防衛と国力の充実が喫緊の課題と考え、「官僚組織の大縮小」、「教育制度の根本的改革」、「工業の地方分散」の三策による都市人口の縮小を唱えている。
「第三は工業地帯の地方分散である。特に重要な軍事工業は適当に全国に分散する。…大河内正敏氏の農村工業はこの方式に徹底すれば、日本工業のためにすばらしい意義を持ち、同時に農村の改新に大光明をあたえる。」と「農村工業」に賛意を表明している。

理研のドン大河内正敏は1945年12月6日、GHQにより「戦犯容疑者」に指定された。記者が来ると研究所で「農村工業論」のペンを走らせていたという。開戦の「共同謀議」に参加していたという容疑だが、上記のような「農村工業論」は戦争にも平和にも役立つ国土開発論だから、思想的にはむしろ「来るべき最終戦争」を予想し、それに準備しようという石原完爾のそれに近いといえるように思われる。
大河内は12月13日巣鴨プリズンに収監され、容疑が晴れたのち1946年4月に釈放された。
理研が陸軍の依頼により原爆開発の研究をしていたのは事実だが、科学者グループはだれも逮捕されていない。

山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間書店)によると、石原完爾は戦犯として訴追されず、1947年5月1〜2日に、膀胱がんを病む石原のために郷里山形県鶴岡市で「極東軍事裁判・臨時法廷」が開かれ、証人として喚問されている。
証言台では「なぜ自分を証人でなく戦犯として出廷させないのか」と逆に意見陳述している。
(仮に法廷が石原を戦犯として起訴していたら、「満州事変」(1931)ついて、より多くの事実が明らかにされただろうと思う。)
裁判長が「東条と対立していたというのは事実か?」と聞いたのに対して、
「私には若干の思想があるが、東条にはない。思想のある者とないものとの間に、意見の対立などありえない」と答えている。

「戦争史大観」は日米開戦前、昭和16年2月12日に脱稿しているが、「昭和維新とは東亜の廃藩置県である」と述べ、東亜諸国の国家連合を構想している。ところが昭和16年1月14日の閣議決定で「国家連合理論」は「建国の精神に反し、皇国の主権をあいまいにするおそれがある」として、これを禁じたと石原は本文中で批判している。
国家連合から世界統一政府に進むことによってしか、戦争の廃絶はできない。今、EUは敗戦国ドイツがその実質的盟主となっているが、EUも一種の国家連合である。アメリカは南北戦争により国家統一を果たしてからは、国内の戦争がなくなった。南北戦争も日本の「西南戦争」も、国家内の武力衝突なので「内乱」である。

石原は「満州事変」の首謀者の一人だが、「明治維新後、民族国家を完成させようとして、他民族を軽視する傾向を強めたことは否定できない。台湾、朝鮮、満州、支那において遺憾ながら他民族の心をつかみ得なかった最大原因は、ここにある。これを深く反省するのが、(支那)事変処理、昭和維新、東亜連盟結成の基礎条件である」と率直に述べている。
つまり彼の考えていた「八紘一宇(世界政府)」への手段としての「満州国建設」はすでに挫折したという認識があったように読める。

「抽象的思考力ゼロ」(立花隆)と称せられた角栄が石原完爾の本を読んだとは考えにくいが、理研の大河内が石原の思想を、あるいは逆に大河内の「農村工業論」を石原が理解していて、相互に影響を及ぼしあったということは、どうもあり得るように思える。
だが、「国土改造計画」の中に大河内や石原莞爾の思想が間接的に入っているだけで、
「日本の今後の進路を一言にして要約すれば<平和>と<福祉>につきよう。
外に対しては戦後一貫してきた平和国家の生き方を堅持し、国際社会との協調・融和のなかで発展の道をたどる。
内に対しては、これまでの生産第一主義、輸出一本やりの政策を改め、国民の福祉を中心に、社会資本ストックの建設、社会保障水準の向上など、バランスのとれた国民経済の成長をはかる。こうした内外両面からの要請に応える大道こそ、私の提唱してやまない日本列島の改造である」
という思想は、田中角栄オリジナルなものであろう。しかし、「八紘一宇」の思想が曲解されたように、「日本列島改造論」も安直に誤解されたと思う。