一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

加藤彰廉初代校長の学校運営

人の評価は、評価をする人の価値観に左右される。ある人物をどう評価するかは、評価する人の器量を反映することにもなる。

katou加藤彰廉(あきかど)は、大正12年に設立された松山高等商業学校(松山大学の前身)の初代校長である。加藤彰廉は、人格者としての評価は高いが、学校経営者としては、過小評価されていると思う。松山高商に在籍した2人の教授は、次のように述べている。「加藤氏は六十一歳の高齢で、・・・在職十年に及んだが、功なり名遂げ、声望定まった後の、言わば余生の十年であった」「学校(生徒)定員は、創立時の百五十名が、昭和六年三百名に増員されていたが、その後変化はなかった。『少数教育』もわるくは無いが、内実の経営は苦しかった。」「加藤先生のやりかたは堅実そのものであるが、発展性の乏しい消極的なものであった。」

確かに、東京大学文学部政治学理財学科卒業後、市立大阪高等商業学校校長、衆議院議員を歴任し、功なり名遂げた余生のように見える。しかし、加藤彰廉の教員生活は、必ずしも順調ではない。
たとえば、49歳でやっと大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)校長となったが、55歳で病気を理由に退職している。その退職理由は、加藤校長は、少人数の組別授業を方針としたが、当時の大阪市の高級助役が合併授業を要請して意見が対立したことが引き金になったと言われている。加藤彰廉は、多くの生徒・卒業生から敬愛されたにもかかわらず、その教員生活は、順調ではなかった。特に、大阪高等商業学校長の辞任は、志半ばでの辞任であった。

「少人数教育による学生の個性に応じた就職先の確保」・「優れた教員の確保・養成」は、加藤彰廉の長年の教育経験を通じての考え方であったが、それを実践する機会がなかった。61歳という高齢になって、学校経営のほぼ全権を任されたもとでの私立高等商業学校の初代校長への就任は、加藤彰廉の望む学校運営ができる最後の機会であり、並々ならぬ決意を持って臨んだと考えられる。その成果の一例をあげると、大正一四年度の全国高商卒業者の平均就職率は60.3%であったが、大正一五年の第一回松山高商卒業生の就職率は98%であった。

img200松山高等商業学校は、加藤彰廉という「人」を得、加藤彰廉は、「時」を得て、官立にも劣らない松山高等商業学校発展の基礎を築くことができた。