一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

インド巡礼(三)

周知のように、古代ギリシャの哲人たちはコスモスという言葉で世界を表現した。コスモスとはいうまでもなく、ギリシャ語で秩序を意味する言葉だ。世界は秩序であるという思い入れを、この語は語っているわけだ。そして、その脈絡からいえば、インド世界を表現するものは明らかに、コスモスに対立するカオス(混沌)という言葉でなければならない。

市街地の乱雑さはもちろんのこと、農村でも、日本の田舎にみられるあの整然とした要素など微塵もみられないのだ。どうやら、この民族は物事を整理したり、整頓することがトコトン苦手であるらしいのだ。実際、貧民街の真只中に、超モダーンな高層建築が建っていたりするチグハグさを列挙すれば、枚挙にいとまがないのである。

モノとモノとの関係が混沌としているように、人間の人間たるゆえんの境域もまた、どうやらこの国ではアイマイであるらしい。人間と動物とのあいだの敷居がさだかではなく、両者は常に連続し、雑然と共棲しているのだ。多くの村々で、さまざまな動物が群れ遊んでいる姿を望見したが、それら愛すべき動物たちはすべて家畜という以上に、むしろ人間の伴侶にふさわしい地位を占めているかのごとくであった。そういえば、われわれはどの村落でもついに、牛小屋だとかニワトリ小屋というべきものに出合うことがなかったのだ。なにしろ、それとおぼしきものはすべて、人間さまのレッキとした住処なのであるから……。

人間と動物とのあいだの敷居すらさだかではないのだから、まして人間と神々とのあいだの境界がはっきりしないのは当然であろう。そういえば、インド人のあの彫りの深い相貌からは好色気なしたたかさとともに、なにげなし神像に似た奥深さが感じられるではないか。しかも、その印象はよく肥えて体力にすぐれた上層階級の連中よりも、やせて貧しく、日々の労働にあくせくする連中に一層いちぢるしい。アウトカーストの、世に賤民視される連中を、かのガンジーがハリジャン(神の子)と呼んだのも、それは政治的ストラテジー以上の、いくばくかの実感を支えとしていたに相違ない。

「インド巡礼③」インド的混沌に関して、この辺でかなり強引かもしれないわたしなりの結論を語って置こう。インド的カオスの実相はどうやら、存在するものすべてがそれに固有な境域をもたず、それゆえ、いっさいが無限定なありようをしていることの反映であるようにわたしには思われてならない。

境域がさだかではないのだから、インド的なものはすべて連続し、重なりあい、そしてたがいのあいだの変身をいたって容易とするのである。実際、今度の旅行を通して触れ得たインド的なものはすべて、絶えずこの変身の舞踏を舞っているかのごとくであった。そして、この変身の舞踏が織りなすマンダラ模様こそまさしく、あの混沌が示す包容力にほかなるまい。してみれば、この変身のマンダラ模様こそはなにものをも限定せず、すべてをあらしめるインド精神の図解なのだ。インド滞在中、思考が混戦するたびに、どうしたわけか「限定は否定である」という、スピノザのあの箴言(しんげん)が絶えずわたしを捉えて離さないのであった。