一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

ウイリアム・ウイリス、大村益次郎、高木兼寛

知られざる医師・教育者ウイリアム・ウイリス

ウイリアムス文書ウイリアム・ウイリスという医者ですが、『幕末維新を駆け抜けたイギリス人医師』という立派な本があります。余り宇和島の人はこの人のことを知りませんが、結構宇和島とは関係があるのです。

宇和島で一皮むけた大村益次郎(村田藏六)は戊辰戦争では太政官政府軍のトップです。西郷隆盛は薩摩軍のトップ。この時点ではまだ両者とも表面にはそれほど現れません。

戊辰戦争になって、どんどん怪我人が出るから「医者を紹介してくれ」と軍務官トップの大村益次郎がパークスに頼む。パークスは「ヨシヨシ」と言ってウイリスを東京病院長として紹介する。そういう経緯が考えられます。

慶応二年の初めになりますが、津島の藤岡春叢という医者が、まだ青年だったけれど、高下駄を二足踏み潰して一か月かけて東京へ出て、このウイリスに習うのです。それまでは蘭方医だった春叢は、エゲレス医学だというので南予で大流行の医者になります。息子さんが有名な藤岡蔵六先生で、そのご子息が大蔵省の局長をやられて、最後がアジア開発銀行の頭取をやられた真佐夫さんです。まだお元気だと思います。

ウイリアムス文章ところが大村益次郎ですが、明治二年(一八六九)九月に暗殺されます。そしてウイリスは大村益次郎というバックが死んだものだから、東京医学校(東京大学医学部のはしり)の中の医者のゴタゴタで東京医学校を去ります。佐賀藩の鍋島閑叟侍医相良知安らが結束して「英国医学はダメだ、独逸医学にしよう」とやって、独逸医学になったと言われています。私は医者として、独逸医学よりも英国医学の方がうんと素晴らしいと思っていますよ。哲学でも、ドイツ観念論よりもイギリス経験論の方が肌に合います。

それで仕方がないからパークスが動いてまた鹿児島に―西郷隆盛なんかの協力で鹿児島医学校をつくります。後で東京慈恵会病院を造る海軍の高木兼寛などが鹿児島でウイリスの弟子になります。彼は東京に貧窮慈善病院を経営したりもします。そうして伊達侯爵家はじめ華族なんかがこの病院を支援します。