一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

インド巡礼(一)

インドの亜大陸ははてしなく広い。くる日もくる日も灼熱の太陽が平らな地平から昇り、半弓を描いて、やがて西の地平へ没してゆく。

その大地の平らな空間を、われわれがチャーターした巡礼バスは猛烈な砂ぼこりを立てながら、ありったけのスピード(平均時速八〇キロ、ちなみに、この国の交通ルールのルーズさにはあきれるほかない)で突っ走る。それでいて、車窓の景観はあたかも時間が停止したかのように変化を示さない。単調といおうか、悠久といおうか、行けども行けどもただひたすらに貧しい村落と、それをとりまく間延びのした耕地と、放置された野と、点在するマンゴーの林が車窓を去来するだけである。

「インド巡礼①」ただおどろくべきは、それらの景観のすべてを包むこの国の大地の底知れぬ静謐(ひつ)であろう。この大地に足を踏み入れたとたん、われわれはたちまち、虫の声ひとつしない、その沈黙の深さに吸いこまれてしまうのである。

実際、この国を旅行していて、村の広場の雑踏や、街角で出くわす物乞いや物売りの声や、祭礼の昻奮などが殊のほか清洌(れつ)に聞こえてくるのも、これら人間の場をとりかこむ、大地の沈黙の無限の深さのゆえに相違ない。どうやら、わたしはこの国に足を踏み入れて以来、すっかりOhren Mensch(耳の人間)になり変わってしまったようである。

大地のみならず、歴史もまたこの国では、沈黙によって大きく支配されているように思われてならない。この民俗に特有な歴史に対する無関心ほど、そのことをよく立証しているものはないであろう。実際、これほど歴史に対して無関心な民族をわたしは知らないのだ。アジャンターの石窟やナーランダの大学の遺構に立って、つくづくそのことを思った。これらの遺跡や遺構は植民地支配者イギリス人によって再発掘されるまで、千年の長きにわたって完全に大地の沈黙のなかに眠り、歴史のかなたに忘却されていたのである。

われわれの今回の仏蹟めぐりの旅は、デカン高原に位置するアジャンターとエローラの石窟見学から始まって、祇園精舎、舎衛城の遺蹟めぐり、さらにはカピラ城址、ルンビニーの苑、捏槃の地クシナガラの仏跡めぐり、そして鹿野苑、ブッタガヤ、王舎城、霊鷲山の遺跡、ナーランダの仏教大学跡の見学とつづく、走行距離にしておよそ一六〇〇キロにおよぶバス旅行だ。

同行者の多くが僧籍にあるので、各仏跡ではしかるべき勤行(ごんぎょう)が執り行われる、巡礼と呼ぶにふさわしい旅である。もっとも、巡礼というほどの覚悟がなければ、こんなシンドイ旅行など、だれがいったいやるものか。おかげで、インドの辺地に生きる民衆の生活とそのなかを布教に生きた釈尊の実存に、いささかなりとも感情移入出来たことは得がたい体験であった。

たとえば、釈尊が起居していたと伝えられる僧堂跡に座って讃仏偈を唱和していると、釈尊のみすがたが眼前に彷彿(ほうふつ)としてくるではないか。かくしてわたしの物思いもまた、釈尊をめぐっての事柄におのずから収斂(しゅうれん)してゆく。

さきほどの沈黙について、もうすこし断想を書きつづけよう。ひょっとしてこの途方もない沈黙との出合こそは、はるばる天竺までやってきて得られた、最大の成果かもしれないのだ。そして、釈尊の説法もまた結局のところ、この沈黙に対峙し屹立(きつりつ)することの選びだったのではあるまいか。禅定は大地の沈黙に直入する最短の道である。そして、釈尊のあの初転法輪こそは、大地との長い対座を通して熟成した精神がついにその沈黙を突き破った、最初の産声だったのである。この産声が清冽であるのは、かの沈黙との対峙がはげしい自己浄化の行いであったことの、このうえない証明であろう。光やわらかな鹿野苑の聖堂のまわりを徘徊しながら、わたしはしきりにそのようなことを思いつづけるのであった。