一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

佐田岬有情 -半島徒歩旅行記-

佐田岬挿絵四国をコウモリにたとえるならば、その翼先、四国をライオンにたとえるならば、その尻尾に当たる。瀬戸内海を宇和海と分水し、豊予海峡をはさんで、佐賀関に対峙する佐田岬半島。いかにも景色がよさそうである。風が強いにちがいない。半島の背をこえる風の音が聞こえてきそうである。座右の地図帳をにらみながら、あれやこれや空想の旅を楽しんでいる時、活字がとびこんで来た。「ミサキ十三里!!」。十三里(五十二キロ)ならば、歩いて二日の行程である。否、わが健脚ならば、一日で歩き通せるかもしれない。その時までに、すでに四国を自転車で一周していた。二千メートル級の山もいくつか踏破していた。足には自信がある。思うが早いか、はや愛用のリュックと軍靴をひっぱり出している。身も心も軽いところがわが身上というものである。青春彷徨。伊方に原発が建設されたり、国道一九七号線や頂上線と名のつく道路が半島を貫通する以前の、昭和三十五年の秋の話である。第一夜は、出発地点とさだめた川之石に泊まった。沖にいさり火が無数にまたたいていたことを、いまも鮮やかに覚えている。

さて、旅は早立ちにかぎるとばかり、翌朝、勇み立って宿をとび出したことはいうまでもない。段々畑のあいだを縫うように、九十九折の道路がうねうねと先へのびて行く。半島は痩せていて、ほとんど平坦というものを知らない地形である。道がたえず、のぼりくだりをくり返す。坂をくだり切ると、海辺を歩くことになる。のぼり切ると、左右に海を見渡すことになる。そして、わたしは二つの海から、明らかにちがった印象を受けとる。瀬戸内海は、いうならば水彩画である。優しく気品がある。宇和海は油絵である。男性的で海が色濃い。

およそ、南予沿岸の景観のよさはひとえに、日本有数のリアス式海岸に負うているといって過言ではあるまい。細長く突き出した佐田岬半島もまた、みずからが分水した瀬戸内、宇和の両海からの浸蝕を受けて、平坦地を奪われ、その海岸線は驚くほど出入りに富んでいる。景色の美しさとは裏腹に、この痩せた地形に依存する生活には、よほど厳しいものがあるにちがいない。段々畑が階をなし、耕せるところはすべてこれ、イモ畑!!いう感じであった。当時、半島では蜜柑栽培がいまほどの普及をみていなかったのである。

ああ!!それにつけても、半島の景観の、この光あふれる南国的な明るさはどうであろう。生活の厳しさが実感されるにもかかわらず、半島に生活するひとたちは皆、この屈託のない南国的明るさを生き抜いている、という感じであった。道で出合う土地のひとたちから、しばしば呼びかけられた明るい「コンニチハ!!」の声。とりわけ、半島の子供たちの素朴なひとなつっこさを、わたしは忘れることが出来ない。

さて、ユックリズムの徒歩旅行の醍醐味は、そのように景観に触れ、地形を観望し、さまざまな思いをめぐらしつつ、その土地に出合うところにあろうというものである。昔のひとの旅はすべてこれ、足を使った旅行であった。おかげで、かれらは道中、ずい分と見聞をひろめ、智恵者となって帰宅することが出来たにちがいない。日本列島を新幹線で突っぱしる時代の旅行から、われわれにいったい、なにほどの見聞が恵まれるというのであろうか。

とはいうものの、起伏に富む半島の悪路は、わが歩みをいっこうに捗らせてくれない。岬の先端は、いまだはるか前方にかすんでいる。半日も経たぬうちに、すでに無理な踏行をあきらめている自分を、わたしはみいだすのであった。その日、三机にてダウン。

ここ瀬戸町三机は、せまい半島のなかでも、もっとも隘なところ。二つの海が小丘をはさんで素通しである。慶長の昔、宇和島藩主富田信濃守がここに運河を築くことに着手、失敗に終わった跡という、三机地峡の遺跡をみた。太平洋戦争のさなか、ここに特殊潜航艇の基地があった、という話も聞かされた。一見、泰平にみえる半島の歴史にも、その実、さまざまな波瀾の存することを思い知らされたことである。

さて、翌朝ももちろん、早立ちである。道は相も変わらず、起伏をくり返す。大久の浜に出た。ちょうど、牛たちの朝の運動の時刻にぶつかったらしい。浜辺を曳いたり、水浴びをさせたり、巨大な肉塊の牛の手入れに余念のないひとびとの姿がそこにはあった。和牛と共にある生活!!これまた、当時の半島のいたるところにみられた、生活風景であったのである。

三崎の町で、無数の空中根を垂らしたアコウの巨木に出合った時は感激であった。いかにも南国へやって来た、という感じがした。潮流に運ばれて来た種子が自生したもので、ここが生育の北限、と聞いた時はさらに感激であった。

そして、この大樹の横を通りすぎると、道路は岬の先端へむけて、ひたすら嶮岨の度合いを強めるのであった。半島も先端に近づくほどに、よほど風が強いにちがいない。みるかぎり、どの家も屋根に石をのせ、軒に達する石積の垣で家の周囲を囲っている。道祖神なのか、信心の証しなのか、路傍に石の地蔵菩薩が点々と目につく。そのような心細い道を歩き疲れて、串の集落にたどり着いた時、すでにせまり来る夕闇が、わたしの前進を阻んでいるのであった。岬の先端に立つ楽しみを明朝に残して、その夜は串に一泊。そして翌早朝、ついにわたしは岬の最先端に立ったのであった。烈風吹きすさぶ、秋高の朝であったことを覚えている。

さて、佐田岬半島を訪れる機会に、その後もいくたびか、わたしは恵まれている。さそわれて、吟行に出かけたこともある。一泊研修旅行を敢行したこともある。もちろん、乗り物を利用しての話である。訪れるたびに、道路事情が段々によくなり、半島の変貌が著しいことをわたしは実感する。昔日の徒歩旅行の体験がわたしに刻印した数々の情景にも、もはや出合うことの少ない昨今である。今後さらに、この半島はどのように変貌してゆくのであろうか。見守りたいと思う。変わらぬものもある。岬の灯台から眼下にみおろす、速吸瀬戸の潮流である。そして、風の強さである。