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閔妃の写真

閔妃の写真 

李氏朝鮮の末期に、国王高宗の妃である閔妃(みんぴ)がその血縁者(外戚)と共に王室・政府の支配権を握った。そのために邪魔になる国王の父、執政大院君を清軍に拉致してもらう(1882)ことまでした。また日本に亡命していた金玉金を1894年上海に誘い出し、刺客により暗殺している。

日清戦争後、閔妃はロシアに接近し、その後ろ盾を得ようとしたので、在朝日本領事館に出入りする日本と朝鮮の壮士たち、日本軍の一部、日本指導下に養成中の朝鮮洋式軍「訓練隊」の一部などが、大院君の同意をえて1895/10深夜、武装して王宮に突入、閔妃を含めその侍従複数を殺害した。

この事件については、実行犯の一人である小早川秀雄の手記「閔后暗殺(「世界ノンフィクション全集37」筑摩書房、1962)を読んだことがある。日本人の関係者48名は広島地方裁判所の予審によりいずれも証拠不十分で無罪となっている。(手記を読めば三浦梧楼公使が首謀者であるのは明らか。)小早川は熊本県出身で、当時ソウルで「漢城新報」の編集長をしていた。

で、この本のフロント・グラビアとその後読んだ角田房子のノンフィクション「閔妃暗殺:朝鮮王国末期の国母」(新潮社,1988)には同じ「閔妃の肖像」写真が載っている。

ところがその後出た、在日の金文子による「朝鮮王妃殺害と日本人」(高文研, 2009)を読むと、「この写真は宮女を写した偽物だ。暗殺者たちは宮廷写真師で日本人の村上天真が撮影した閔妃の写真を頼りに彼女を殺害したが、写真はその後、証拠隠滅のため破棄された」と主張している。

その主張を容れたのか、それ以後の在日による研究書、例えば金重明「物語・朝鮮王朝の滅亡」(岩波新書, 2013)には閔妃の写真が載っていない。それ以前に出た韓国または在日の朝鮮についての歴史書には、かならずこの閔妃写真が載っている。

ここで不思議に思うのは、韓国人や在日の研究者が必ず「国母」と書く、閔妃の写真が1枚もないということがありえるだろうか?ということだ。(閔妃とは、「閔一族から出た妃」の意味で、当時の朝鮮では女性には名前がなかったのでこうなる。1910年の日韓併合後に戸籍法が作られ女性にも名前が与えられるようになった。)

 

1894年から3年連続で朝鮮を4度も訪問した英国の女性旅行家イサベラ・バードは、訪問中に6度も宮廷に招かれ、国王高祖や閔妃と会話している。宮廷の池の傍らにある、亭(あずまや)の写真撮影を乞うたら国王が心よく許可し、「いつでも、どこでも」と言ったとある。彼女は写真撮影に堪能で、日本旅行でも多数の写真を撮影している。

彼女はおそらく王と王妃の肖像を撮影したであろう。閔妃の服装についてのバードの描写を読むと、写真を見ながら記憶を補正したとしか思えない、微細なところまで叙述されている。他にも外国人で国王と王妃の写真撮影をした人物がいる可能性が高い。

李朝末期に彼女が果たした役割を鑑みると、信頼のおける閔妃の写真がないというのは、日本と朝鮮の歴史学者の大いなる怠慢だと思う。