一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

廃用性萎縮-2

廃用性萎縮-2

サン・フランシスコ郊外にあるスタンフォード大学で40日間、NCIの仕事をしたことがある。この時は家族を同伴し、子供二人は現地の小学校に入れた。日本の小学校がキリスト教系で、校長の理解がえられたため、これが可能になった。

宿は付近のモーテルだった。朝家内が車で子供を学校に送った後、私は食事してスタンフォード大医学部に通った。

 

スタンフォード大は、鉄道王のスタンフォードが若くしてイタリアで客死した息子を記念するために設立した私立大学で、構内には「スタンフォード博物館」や戦争と平和に関する「文書館」もある。私の仕事は「非ホジキン・リンパ腫」400例の病理組織標本を顕微鏡で見て、6種の病理分類に基づき、6種の診断を下すことだった。とてつもなく広いキャンパスで、当時は飛行場まであった。

 

当時の病理学教室の主任教授はロナルド・ドルフマン(故人)だった。彼はFMでクラッシック音楽を聴きながら顕微鏡を見ていた。「こうすると心が落ち着いて、顕微鏡診断に集中できる」と話してくれた。英国系ユダヤ人で、南ア連邦の「アパルトヘイト政策」に抗議して米国に移住した。NCIの図書館で過去の文献を調べていて、「EBウイルスの関与しないバーキットリンパ腫」を米国で最初に報告したのが、彼だと知った。

英国英語を話し、鼻音がきれいだった。だがレジデントの中には「きざだ」と陰口を利くものもいた。

 

NCIプロジェクトが終了して総括会議がスタンフォード大で開かれ、放射線科の主任サウル・ローゼンバーグ教授の自宅でパーティがあった。中国製の翡翠の短剣を見せられ「これはなに製か?」と聞かれて、英語が出てこず弱った記憶がある。

ドルフマンは夫妻で私をサン・フランシスコのかなり南にあるモントレーという風光明媚な海岸に案内してくれた。途中サリナスという古そうな町でランチを食べた。奥さんはドーンといった。「あかつき」という意味だ。サリナスは米文学史上では有名なところだと話してくれたが、こっちは教養不足で、ありがた味がわからなかった。

 

仕事をした診断室とその前室には秘書とコンピュータ技師の2人がいた。たまたまオックスフォード大名誉教授A.H.T.ロブ=スミス(故人)も来ていて、2人が肩を並べて標本を診た。彼とは話がよく合って、職員食堂でランチを共にし、歓談をした。

もう80歳近かったが頭の回転は速く、相当な早口でしゃべったので、ついて行くのが大変だった。悪筆で手書きの手紙は私にはほとんど読めなかった。後日、英オックスフォードに彼の自宅を訪ねることになった。その時はランチをご馳走になったが、裏の小川で釣った小魚のアンチョビのようなものを出してくれた。日本の南蛮漬けみたいなものだ。

80歳を超えた老人が釣りをすること、自宅裏の小川に清流があることに驚いた。表はサークル道で、彼の家はストーンハウスなのに…。

東大卒・東北大医教授だった赤崎兼義先生(故人)とドイツのアショッフ教室に同時期に留学していたこと、第2次大戦が始まったので英国最後の留学生になったこと、などを話してくれた。私は赤崎先生を知っているので、「友だちの友だちは、友だち」という高月清さんのアフォリズムのように、すぐロブ=スミスと友だちになったのだ。

 

当時すでに英文ワードプロセッサが実用化されていて、秘書と技師はIBMタイプライターに接続されたワープロを使っていた。技師の名はドン・ペルトンといった。

スタンフォード大には「学生新聞」もあって、そのコラムを読むと、学生の間で急速にコンピュータ化が進んでいるのがわかった。

で、ドンが昼休み中の雑談に、こんなことを話してくれた。

来る日も来る日もワープロのキーボードを叩いているので、ある日手紙を書こうとボールペンを握ったら、英単語が書けなくなっていた、というのだ。

 

タイプライターのキー配列は、左は上段から下に向けて「Q、A、Z」で、中段には使用頻度の高い「A、S、D」が左から右に並んでいる。ただユーザー辞書に登録しておけば、「A」と入力しただけで、about, at, Artなどの文字に変換できる。

画面の選択候補の中から、目で見て必要なスペルを選べばよいので、自分で文字を綴る必要がない。それを続けていると、文字が書けなくなるとドンは言うのである。

「ああ、これは廃用性萎縮だな」とその時、思った。

 

まさかそれが自分に起ころうとは思ってもみなかった。だが起こったのである。

私の仕事用机は元が6人用の食卓だから広く、眼の位置から53センチのモニターまで約1mある。普通の文字サイズでは見づらいので、ワープロでは2倍に拡大してある。そのため近見視力を使うことがなく、眼鏡不要で眼精疲労も起こらない。

ところが「書字不能」現象が起こったのだ。最近では必要な買物をメモ用紙にメモする程度で、日記も書いていなかった。

ところがある献本(それは先輩からの贈り物だった)の礼状を書こうとして、ハタと文章が手書きできない自分に気づいたのである。

 

いろいろ考えたら、肩に力が入りすぎている、筆圧が高すぎる(いつもボールペンを使っていた)etcに気づいた。キーボードのキーを叩くのに、つい肩に力を入れてしまうらしい。

「これはその辺からリハビリをするしかないな」と考え、まず原稿用紙に2Bの鉛筆を用いてマス目を埋めることにした。2B鉛筆は作家が愛用する。軟らかくて筆圧が不要だからだろう。

パソコンだと400字x3枚の1200字原稿を、「400字x 30行」で1枚の用紙に書けば、1画面に収まる。文字数の調整も、段落を揃えるのも簡単にできる。

だが、原稿用紙ではこれらが簡単にできないし、いい加減に書くと自分の書いた字が読めない。便利さには裏に隠れた「副作用」があるな、と思ったことだ。

 

「使わない機能は必ず衰える」というのが「廃用性萎縮」だ。前に進化の原動力について「用不用説」を唱えたフランスの動物学者をレマルクと書いたが、ラマルクの間違いだった。レマルクは「西部戦線異状なし」、「凱旋門」で有名なドイツ系の米作家だ。お詫びして訂正する。

 

そこで書字のリハビリを始めた。4月2日から万年筆で日記を書くことを再開し、その日の主な出来事や仕事を記入することにした。最初は漢字が出てこないので「岩波・現代用字辞典」が手放せなかった。やがて少しずつ手書き文字を思い出し、今日4月20日には、昨日のことも含め今朝のことを辞書なしに書けるようになった。

中国新聞社の一面コラムの書き写しノートが書店で売れているらしい。あれはノートで本ではないが、なぜか本屋で売っている。ボケ防止にお年寄りが買っているのだろうな、と推測している。

いわゆるボケとか老人の身体機能の衰えには、廃用性萎縮がからんでいるのだな、と思ったことだ。前回に書いたように「ケトン食」で肩の力を抜くことを学び、毎日、万年筆で日記をつけるようにしたら、漢字忘れはかなり回復した。