一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

ないものを知る

ないものを知る

 

「産経」が「原子力 人材枯渇危機、志望減 東芝損失で拍車か」という記事を載せていた。これも私の予測通りになった。

美しい日本に来て欧米先進国の観光客が驚くのは、電線が地下埋設されていないことだ。「地震大国なのに信じられない」と思うだろう。本当の田舎を知りたい観光客は、国道はおろか住宅までの道路脇に電柱が並んだ、田舎の風景を見て当惑するだろう。オリンピックの経済効果は電線の地下埋設があったら、さらに増加するだろうに…

 

昔、バブルが弾ける前のこと、病院にいた私の臨床病理科に研修に来て、その後パリ見物に行った女子医学生がいた。感性が優れていたが、「パリの百貨店に行ったら、日本の方が、品揃えが上だった」、「何もかも日本が上だった」という。あるものを比較するのは簡単だが、ないものが見えないと優れた病理医にはなれない。「ではパリの街にけばけばしい看板があったかね、電柱が立っていたかね?」と聞くと答えられなかった。

日本にあって、パリにないものが見えていないのだ。

 

(この女子医学生は、私の指導で末梢血の走査電子顕微鏡による研究をし、その成果を論文として「広島医学」という県医師会の学術雑誌に掲載できた。両親がお礼に来て「これで精神的に不安定なところがある娘が立ちなおりました」と言われたのを記憶している。彼女はその後、麻酔科に進んだ。)

 

病理医にとっては、「この標本にはこういう所見が欠けている」という認識が誤診を防ぐのにきわめて重要となる。私は診断する時に、検査依頼書は性別と年齢を見るだけで、まず標本だけで診断する。その診断と年齢、性別が矛盾しないことを確認した後、初めて病理検査依頼書にある病歴、臨床的特記事項や検査データなどを読み、疑問が生じたら、再度標本を見る。臨床診断はありふれた病名をつけてくるから、ほとんど当てにならない。

この方法で標本の検体違いを発見して医療ミスを防いだことは前に述べた。

 

病理診断は臨床診断に追従してはダメなのである。病理医の役割は「ピア・レビュー(同僚審査)」にあり、「医療の裁判官」とも呼ばれる。依頼書の記載、臨床診断の病名などを病理診断と対比させれば、誰が名医で誰がヤブかはすぐに分かる。

 

江戸川乱歩の戦前の推理小説に、犯人がスプリング式の赤い郵便ポストに隠れて、追っ手の眼をくらますというプロットがあった。郵便ポストなど、東京の人口が増えている時だから、ある日突然におかれていても、誰も不思議に思わない。しかも夜中のことだ。

これも「ここに郵便ポストはなかったはず」という認識が欠けているのが普通だという、人間の心理的盲点を利用した面白いトリックだ。

 

バブルの頃、田舎でも住宅開発が進むと、団地ができる前は何だったのか、忘れるのが早い。これはしょっちゅう経験することだ。

今は廃屋が国道沿いにも目立つが、取り壊されると前にどんな家があったのか忘れてしまう。子供の頃の家はよく憶えているが、あれは徒歩通学の途中に、じっくり観察したからで、車で通りすぎるだけの今は、ほとんど記憶に残らない。

短期記憶が長期記憶に変わるためには「感動」が必要で、AIと違い人の脳は「忘れる」ようにできている。随筆家の外山滋比古は「忘却の整理学」でそのことを指摘している。