一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

ピレウス港今昔

1/13「日経」など各紙が、アテネ主要港ピレウスの国有運営会社の株式51%をギリシア政府が中国に売却することになったと報じていた。価格は3億〜4億ユーロ(380〜510億円)と報じられている。買収するのは中国国営の会社「中国遠洋」。すでにこの会社はピレウス港の運営権を35年間、4億ユーロで2009年に取得している。

ピレウスは「ペイラエウス」ともいうが、アテネの南西アクテ半島に囲まれたカンタロス湾にある大きな港である。(Fig.1)

image1Fig.1:古代アテネとペイラエウス港=カンタロス湾にある

これは前431年、アテネとスパルタの間に「ペロポネソス戦争」が始まった時点での、アテネ防衛体制である。(拙著「誰がアレクサンドロスを殺したのか」岩波書店、2007より)

アテネ市街から八の字形に長城が延びて西からカンタロス湾、ゼア湾、ムニキア湾、ファレロン湾という4つの湾を囲んでいる。カンタロス湾にあるペイラエウス(ピレウス)港までは北城壁と中央城壁に護られた道路があり、輸入した食糧を港から安全にアテネ市内に運ぶことができた。つまりアテネ海軍が健在である限り、アテネは長期にわたる籠城戦に耐えることができるように都市設計がなされていた。

このグランド・デザインは今日でも残っている(Fig.2)。

image2(Fig.2:現在のピレウス港とテミストクレス公園の位置=道路が輪になっている部分)

4つの湾のうちで奥行きが深く、静止水面が広いカンタロス湾のピレウス(ペイライアス)港がもっとも発達し、世界各地へむけての出発・到着起点となっている。この港には自動車道と鉄道、地下鉄が集中している。

image3(Fig.3:中国に売却されたピレウス港)

港の海域が広いので、大型の貨客船やフェリーがまるで玩具の船のように見える(Fig.3)。

私は古代ギリシアとマケドニアについての上記の本を出した後、2008年にアテネのアクテ半島を訪れ、4つの港を見物したのだが、ギリシア人が偉大な祖先に敬意を払っていないのに驚いた。それに観光客に対する配慮がまったくないことにも…

image4(Fig.4.ピレウス駅の案内表示板。海に突き出してテミストクレス公園がある。)

これは地下鉄ピレウス駅構内にある案内図だが、全部ギリシア語で書いてあり英語併記がない。地図の左、湾に突出した部分に「テミストクレス公園」という小さな公園がある。ちょうど縦に細長い緑色の四角形がある地点だ。(Fig.3)

ここの荒れた草地に小さな石碑があったが英語案内はなく、意味が不明だった。ところが後にプルタルコス「英雄伝(二)」(岩波文庫, 1952/2)の「テミストクレス」の項を読むと、ペイラエウス港のこの位置に「テミストクレスの墓がある」と書いてあった。事前の知識がなかったため、まさかあんな貧相な石碑がテミストクレスの墓石とは知らず、写真を撮り忘れた。

テミストクレスはペルシア戦争の直前にアテネのアルコン(総代)に就任し、アテネ海軍を建設した。財源として前483年発見の「ラウレイオン銀山」の収益を個人配分せずに国庫収入とすることにし、この金を三段櫂船200隻の建造費用にあてた。「サラミスの海戦」(前480)では、アテネ西方のサラミス島とコリントス地峡の間の「サラミス海峡」にギリシア艦隊を集結し、ペルシア海軍をおびき寄せて、これを壊滅させた。陸戦ではギリシア軍は「テルモピレーの戦い」で大敗していたから、海戦にも負けていたらアテネはペルシア軍が占領していただろう。

この海戦の後、テミストクレスはアテネ改造計画を実行に移した。それは最初の城壁完成までに23年を要した巨大土木建築事業で、公共事業としての性格も持っていた。

その結果、陸上からの攻撃にはビクともしない長城と長期籠城を可能とするピレウス港の整備と港と市街を結ぶ城壁に護られた道路の建設が行われた。テミストクレスによるアテネ都市インフラ整備事業の後、ペリクレスが政治に登場して「アテネ民主主義」がその黄金期を迎える。

今のギリシアは債務超過で国家財政は破綻しており、今後3年間にEUから860億ユーロ(約11兆円)の融資を受けなければならないが、条件として500億ユーロの国有/公的資産の売却を迫られているという。(「日経」1/13)

背に腹は代えられないのであろうが、それにしても「カリアスの和議」(前449)で、ペルシアがギリシア侵攻をあきらめたのは、ピレウス港を根拠地とする強力なアテネ海軍と要塞都市アテネの存在が大きかった。ピレウス港は現在でも戦略的に重要な意義を持っている。

古代ギリシア文明の存亡の危機を救ってくれた、テミストクレスゆかりのピレウス港を、よりによって「現代のペルシア帝国」中国に売却したというのだから、あきれてものも言えない。

ギリシアという国がグローバル化した今日の世界で、衰亡せざるをえないことは、上掲の「案内図」を見ただけで分かる。外国人観光客を意識した文言がひとつもない。自国の誇るべきテミストクレスの墓地も表示されていない。

中国のやっていることは、19世紀から20世紀の初めにかけて、阿片戦争や義和団事件で、ヨーロッパ諸国が「99年」の期限を設けて、香港やマカオを租借したのと本質的にはあまり変わらない。相手の弱みにつけ込むという点で…。中国の領土蚕食の根本には「清帝国」の自衰という問題があった。

今回のペレウス港売却問題は、根本的にはギリシアの自衰である。ギリシアをEUに入れなければ、ギリシア問題も「EU難民問題」も起こらなかっただろう。トルコとギリシアが独自に対処すべき問題になっていたはずだ。だがギリシアのEU加盟を認めた以上、難民問題にはEU全体が協力してあたる必要があろう。中東からの難民はEUにとって「民族大移動」とでもいうべき、危機に発展しつつある。

1/16「日経」が伝える英「ファイナンシャル・タイムズ」社説によると、デンマークでは「移民の財産没収」案が浮上しているという。難民の生活援助費に充てるため1万クローネ(約17万円)を上限に移民の財産を没収することで、デンマークへの移住を抑制しようとするものだという。デンマークにさえこのような政策が浮上してきたことに、欧州危機の重大さが読み取れるように思う。