一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

8 捨ててこそ

 

 

空也上人は我先達(せんだつ)なり    一遍

捨聖といわれた一遍さんは平安時代の市(いち)聖(ひじり)と呼ばれた空也(くうや)上人を慕っておりました。「ただ身を捨ててこそ」の空也上人の心が、すなわち、一遍さんの心であったのです。

京都・六波羅蜜(ろくはらみつ)寺に仏さまを口から吐いている有名な空也上人の像がありますが、これは、上人が「南無阿弥陀仏」と唱えるごとにその声が仏になった、という伝説を伝えています。ですから、上人は阿弥陀聖ともいわれます。空也上人は、諸国を遊歴して、井戸を掘り、道路をつくり、また、道端に捨てられた身よりのない死骸を火葬して厚く葬りました。誕生地の伊予・宝(ほう)厳(ごん)寺にある一遍さんの木像とこの空也上人の像は日本の遊行像の双璧(そうへき)です。

空也上人は鐘をたたきながら、杖をつき、歩いているのですが、一遍さんは何も持っておりません。掌を合わせて、何もかも捨て果てて、歩む一遍さんの姿です。

 

今日もまた朝とく起きて励まなん          窓に明るきありあけの月  教信

また、一遍さんは、空也上人より約百年も前の、教(きょう)信(しん)・沙(しゃ)弥(み)(妻帯の僧)の生き方こそ人間の生き方だと思っていました。教信沙弥は奈良・興福寺の学僧だったそうですが、諸国を放浪遍歴、播磨(兵庫県)の賀古で草庵を結び、妻帯・子供もできました。村の田畑の手伝いをしたり、旅人の荷物を運んだりして、世を過ごし、また、日夜、念仏を唱えていましたので、荷送り教信とか、阿弥陀丸とかいわれました。貞観八年(八六六)、八十二歳で亡くなりましたが、死体は遺言通り、竹藪の中に捨てられたといわれます。この教信沙弥の生と死は、一遍さんのあこがれでした。