一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

捨聖 一遍さん -一遍入門ー 

     

 

一遍さんて知っていますか。

 

一遍さんは鎌倉時代のすばらしい聖(ひじり)です。

聖とは、一所不在の遊行(ゆぎょう)僧、つまり一ところにいないで、各所を教化してまわるお坊さんのことです。

当時、東に日蓮、西に一遍といわれました。

 

今、一遍さんの誕生地である宝(ほう)厳(ごん)寺(1)に、一遍さんの木像があります。このつつましい木像(2)は室町時代の代表作といわれますが、すその短い破れ衣。すねをにょきっとだしている。はだしで、わらじもはいていない。頬がこけ、あごもとがり、眉が長くて、目は静か。口には念仏。合わせた掌の先から、光がでているような。

こんな姿(3)をして、全国行脚して、人々を念仏教化してまわったのです。

 

日蓮上人は、火のようなひとでした。一遍さんは、風のような人でした。

 

源氏と平家が戦ってから、ずっと日本の国内は落ち着きませんでした。国の中央でも、国の端々でも、勢力争いのけんかばかりでした。

そして、そのうえ諸国に暴風雨、洪水、地震などがしばしば起っていますし、大飢饉に見舞われ、餓死者や病死する者が沢山でた年が続いています。本当にかわいそうなのはいつも一般庶民でした。明日の生活もわからない、生きる望みもありませんでした。そんな状態の時、あの大蒙古の軍勢が、九州沿岸におしよせて来たのです。

 

日蓮上人は、国難来ると、南無妙法蓮華経を叫び、一遍さんは、南無阿弥陀仏で救われよと、旅をつづけたのです。

 

 

 

(1) 宝厳寺(ほうごんじ)

愛媛県松山市道後にある。豊国山宝厳寺。寺伝には天智天皇の四(六六五)年、河野家第三十四代伊予大領守興が建てたというが、明らかではない。正応五(一二九二)年再建。それ以後天台宗を時宗に改めている。

 

正岡子規はその著「散策集」の中で次のように書いている。

   「松ヶ枝町を過ぎて宝厳寺に詣づ、ここは一遍上人の御誕生の霊地とかや、古往今来当地出身第一の豪傑なり。妓廓門前の楊柳、往来の人を招かで空しく「一遍上人御誕生地」の石碑にしだれかかりたるもあわれに覚えて

  古塚や恋のさめたる柳散る

 また宝厳寺山門に腰うちかけて

  色里や十歩はなれて秋の風」

 

(2) 一遍上人木像

国指定重要文化財、文明七(一四七五)年作、寄木造り、高さ一・一二メートル。一説には正応五(一二九二)年、上人弟仙阿上人が刻んだものといわれる。

 

(3) この木像を拝観して歌人川田順は次の詩を作っている。

 

糞掃(ふんぞう)衣(え)すその短く

     くるぶしも臑(すね)もあらはに

草鞋(わらんじ)も穿かぬ素足は

     国々の道の長手の

土を踏み石を踏み来て

     にじみたる血さへ見ゆがに

いたましく頬こけおちて

     おとがひもしやくれ尖るを

眉は長く目(ま)見(み)の静けく

     たぐひなき敬虔(つつしみ)をもて

合せたる掌(て)のさきよりは

     光さへ放つと見ゆれ

伊予の国伊佐庭の山の

     み湯に来て為すこともなく

日をかさねわれは遊ぶを

     この郷に生れながらも

このみ湯に浸るひまもなく

     西へ行き東へ行きて

念仏もて勧化(かんげ)したまふ

     みすがたをここに残せる

一遍上人