一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

松寿丸像湯浴み式

「松寿丸像湯浴み式」考

一遍会理事 三好 恭治

一遍上人の生誕日

一遍は時宗の開祖であり生誕地は「伊予」、終焉の地は「兵庫 観音堂」とされる。終焉については、一遍につながる聖戒が編纂した『一遍聖絵』の最終巻に詳細に記載されており、没年月日は正応二年(1289)陰暦八月二三日であり疑問をさしはさむ余地はまったくない。一方、生誕月日についての第一次史料は残されていない。『一遍聖絵』では冒頭に一遍の出生を簡潔に述べている。

「一遍ひじりは俗姓は越智氏河野四郎通信が孫同七郎通広(出家して如佛と号す)が子なり延応元年(1239)巳亥予州にして誕生 十歳にて慈母におくれて始て無常の理をさとり給ぬ」

通説では、松山市道後にある(奥谷道場)豊国山遍照院宝厳寺の寺域内にある父通広の住む塔中のひとつに、延応元年(1239)二月十五日に生まれたとする。鎌倉後期の宝厳寺の塔中は十二庵あったと想定されるので、そのうちのひとつの庵であったと考えられる。

(注)通説の資料は『一遍義集』(1497~1513)、『一遍上人年譜略』(近世初期以降か)、『麻山集』(不詳)である。

陰暦二月十五日は釈迦の入滅(にゅうめつ)の日であり、涅槃会(涅槃講や涅槃忌とも称する)の日である。尚、釈迦の生誕の日は陰暦四月八日であり、潅仏会として、日本では釈迦童像に甘茶を掛ける行事が定着している。

思うに一遍の生誕日を陰暦二月十五日(涅槃会)にしたのは、一遍を釈迦の再来とする庶民(時衆)の期待があったからではなかろうか。一遍の示寂は陰暦八月二三日(秋分の日)であり、まさに一遍を阿弥陀仏(釈迦)の生まれ代わりと信じたのではあろう。(中世の多くの遊行聖がそのように説教して回ったのではあるまいか。)

一遍が崇拝した鎌倉期の歌人である西行法師の『山家集』(1175年頃)には、涅槃会に仏に抱かれてこの世を去りたいという句が残されている

「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」

一遍上人生誕会は、一遍生誕の地である宝厳寺並びに一遍会が実施する「一遍上人生誕会&松寿丸湯浴み式」のみである。それだけに、この生誕会行事は貴重であり、当代の勝手で中断してはなるまい。

一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)が一遍会によって宝厳寺で実現したのは平成七年(1995)三月十五日である。当時は「松寿丸像湯あみ行事」と称した。松寿丸は一遍智真の幼名で、祖父通信の幼名「若松丸」と父通広の幼名「徳寿丸」から一字ずつもらったものといわれる。

抜粋転載 一遍会報 第386号

     平成二十九年 三月十一日 宝厳寺において、一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)がとり行われた。この松寿丸湯浴み式は、平成二五年(2013)八月一〇日の本堂の焼失により中止されていたが、平成二八年五月一四日の宝厳寺本堂再建、一遍上人堂の竣工により、本年(平成二九年)三月十一日に復活した。

早春の柔らかな陽光のもと、一遍上人堂の前に設けられた「松寿丸像」にて、湯浴みの祈りがささげられた。

愛媛銀行会長 中山紘治郎氏も、早春の陽の光を受けて輝く松寿丸像に手をあわせた人の一人である。

この「松寿丸像」は、故足助威男氏が制作した砥部焼の陶製で、ほのかに微笑をたたえた童の姿をしている。美しい色とりどりの花々に囲まれて、おだやかなお顔がさらに福々しく見える。