一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

正岡子規句碑

②正岡子規句碑(本堂前庭南端中央)

 

色里や 十歩者(は)なれて 秋の風           

              子規

大意)色里をほんの十歩離れただけなのに、この宝厳寺の境内には、爽やかな秋風が吹いてることだ。

明治二十八(一八九五)年、子規は従軍記者として、中国遼東半島に出征した帰路、船中で大喀血をして重篤となった。神戸や須磨で療養し、幸い小康を得て、親友夏目漱石が中学教師として赴任していた故郷松山に帰る。漱石や松山の俳句結社「松風会」のメンバーたちに、俳句革新を提唱する目的を持っていた。その一環として、十月六日、子規は漱石を同行して道後に遊ぶ。『散策集』には次のように記されている。

今日は日曜日なり。天気快晴なり。病気は軽快なり。遊志勃然(ぼつぜん)、漱石と共に道後に遊ぶ。(中略)松枝町を過ぎて宝厳寺に詣づ。ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往今来当地出身第一の豪傑なり。妓廓門前の楊柳従来の人を招かで、むなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかかりたるもあはれに覚えて

古塚や恋のさめたる柳散る

 

   宝厳寺の山門に腰うちかけて

 

    色里や十歩はなれて秋の風

 

昭和四十九年(一九七四)年十月六日、『散策集』より八十年を記念して、一遍会会員、一遍堂主人新田兼市氏が、郷土顕彰のために建立した。筆跡は、子規自筆の自選句集『寒山落木』の文字を拡大したもの。

 

正岡子規(慶応三・一八六七~明治三十五・一九〇二)松山市出身。幼名処之介。本名常規、通称升(のぼる)。号は、子規のほか、竹乃里人、獺祭書屋主人など多数。ジャーナリスト、俳人、歌人、随筆家。生涯をかけて俳句分類に努め、個性と時代性を内包することを知って、「俳句は文学なり」と確信する。写生論に基づいて、俳句、短歌、文体の改革を成し遂げる。自選俳句集『寒山落木』、自選歌集『竹の里歌』、随筆に『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などがある。