一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

一遍上人歌碑

宝厳寺文学碑      一遍会

宝厳寺の境内には、八基の文学碑がある。施主の方々が、それぞれの思いをこめて建立してくださったものであるが、互いに不思議な縁で結ばれている。詩人の坂村真民さんは、生涯一遍上人を敬慕しておられた。その真民さんのことば、「巡り会いの不思議さに手をあわせよう」の思いを深くする。

 

016①一遍上人歌碑(本堂前庭右奥)

身(み)越数(をす)つる

 

す徒(つ)累(る)心越(を) 寿轉(すて)川連半(つれば)

    

於(お)裳(も)日(ひ)なき世耳(に) すみ曽(ぞ)めの袖

 

(大意)身を「捨てる」という心さえも捨ててしまったので、もはや、思い迷うことのない人生を生きる墨染の衣(僧)であるよ。(「思ひなき世に住み」の「住み」と「墨染」の「墨」は掛詞)

弘安三年(一二八〇)秋、一遍上人は白河の関を越えて、奥州の江刺(岩手県北上市稲瀬町水越)に至り、祖父河野通信(一一五六~一二二三)の墳墓に詣で、茨(いばら)を払って、同行の僧尼ともに、懇ろに菩提を弔った。通信は、屋島や壇ノ浦の戦いに奮戦し、平家討滅に大功をあげたので、鎌倉幕府の御家人にも取りたてられ、河野氏は興隆した。しかし承久の乱(一二二一)で、通信は朝廷方に味方して敗れ、江刺に流されて、そこで没した。波瀾万丈の人生を送った祖父通信のために、極楽往生を祈った一遍上人が、自分は、衆生済度のために、徹底して捨聖の生涯を生きようと誓った歌である。

歌碑は、平成二(一九九〇)年、上人の生誕七百五十年、没後七百年を記念して、一遍上人の修行地松山市窪野町北谷に、時宗総本山遊行寺宗務長辻村恂善師、宝厳寺住職長岡隆祥師。一遍会、地元有志など多数の浄財により建立された。筆跡は、『一遍聖絵』巻五から採られたもの。平成二十八年、宝厳寺本堂再建にあたり移された。

 

dscf5011一遍上人(延応元・一二三九~正応二・一二八九)ここ宝厳寺に生まれる。父は河野七郎通広。幼名松寿丸。十歳の時母に死別し、菩提を弔うために出家し、隨縁と名のる。十三歳で九州大宰府の聖達に学び、法名を智真と改める。文永八(一二七一)年善光寺に参籠、二河白道図を模写して帰る。窪野に庵を結び、二河白道図を掲げて修行。「一切のものを捨て去って、阿弥陀仏に帰依することによって、総ての人が平等に救われる」ことを、人々に知らせるために、生涯を捧げようと決意する。岩屋寺で修行を重ねた後、文永十一年、摂津国(大阪府)四天王寺から念仏を勧める賦算(札配り)を始める。一時迷いを生じたが、熊野本宮証(あかし)誠(じょう)殿(でん)で、念仏賦算の神託を受けて成道する。以後一遍上人の足跡は、北は奥州江刺から、南は九州大隅に及ぶ。建治二(一二七六)年頃、別府鉄輪の温泉を開き、医療に役立てる。弘安二(一二七九)年、信濃国佐久郡小田切(長野県佐久市小田切)で踊り念仏を始め、一遍上人の行くところ、民衆を感動させる。正応二年の晩春、伊予に別れを告げた一遍上人は、讃岐、阿波、淡路を経て、兵庫の観音堂(真光寺)に至り、八月二十三日往生を遂げた。一遍上人の「自受用(じじゅよう)」(自分が生まれ持った能力を世の中に活かす)の教えは、室町時代、多くの阿弥衆、同朋(どうぼう)衆(しゅう)というプロ集団を生じ、能、連歌、生花、作庭、平家琵琶など多くの日本文化を創出した。