一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

聖絵の紹介

第二巻第一段

伊予国菅生岩屋寺(模本 清浄光寺(遊行寺)蔵)

文永十年(一二七三)七月に、伊予国浮穴郡菅生の岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)というところに参籠します。この場所は、観音の出現されたという霊地であり、また仙人が修行したという古跡です。昔、仏法がまだ広まらなかったころ、安芸国(広島県)の人が狩のためにこの山に来て、峰に登って獲物の鹿を持っていましたが、ある夜、朽木に弓を当てて弦を張りました。その後、この朽木が一晩中光を放ちました。昼間になってこれを見ますと、表面は枯れ木で青い苔がところどころに生えて形もはっきりしません。中に金色に光るものがあり、姿は人に似ています。この狩人は仏菩薩の名も姿もまだ見たり聞いたりしたことがありませんでしたが、おのずから理解して観音であることを知りました。信心が、たちまち起こって、持っていた梓弓(あずきや)を棟や梁とし、着ていた菅蓑(すげみの)を屋根として、小さい家を作って安置申しあげたのです。

DSCF4912その後二、三年経って、またこの地に帰って来て、もとの場所を探しましたが、小屋は壊れて跡形もありません。峰に登り谷に下って尋ね歩きますと、草が深く茂って、ほかと違った所があります。立ち寄ってみますと、もとの蓑の菅が生い茂って、その中に本尊が光り輝いていらっしゃいますので、嬉しく思って再び堂を建て、おごそかに飾って菅生寺と名づけ深く信仰しました。狩人は、こんも場所の守護神となろうと誓い、後に野口の明神として祀られ、今日に至っているのです。

こうして年月が移り変わって、用明天皇の治世の期間、中国皇帝の使者が来て、隋の文帝の皇后が懐胎されたとき不思議なことがあったといい、三種の宝物(戒定慧箱・鏡・錫杖)をこの観音に捧げました。その使者は、そのままここに止まり鎮守になろうと言って、白山大明神となって堂の南に祭られたのです。

さて、その後この堂に廟を差しかけましたが、火災が起きたとき本堂は焼けずに廟だけが焼けました。桜の木に登られました。又次に火災があり、本堂に又飛び出して同じ木に移られ、本堂は焼けました。三種の宝物は灰の中に残って焼けたものとも見えません。鐘や鐘状の響きは昔に変わることはありませんでした。この桜の木は、本尊が出現された時の朽木が、再び芽を出し枝を伸ばし花を咲かせたものです。それ故、ここは仏法最初の寺であり、霊験あらたかな本尊なのです。

次に仙人というのは土佐国(高知県)の女性です。観音の利益を仰いでこの岩屋に参籠し、五つの障りがあるという女の身を厭い離れて、一乗妙典法華経を読んでいましたが、法華三昧を成就して、空中を自由に飛びまわる身を得ました。ある時は普賢菩薩や文珠菩薩が現われ、ある時は地蔵菩薩や弥勤菩薩が影のようにより添って護られましたので、それぞれ出現の菩薩の名を取ってその場の地名としました。又、四十九院の岩屋があり、仙人が父母のために、極楽行脚の有様を現された跡があり、また観音三十三所の霊掘があり、諸国行脚の行者が霊験を祈る場所です。

DSCF4916およそ奇巌怪石が連なる峰上にそびえ立ち、月は永遠不滅の仏身のように輝き、奥深い洞穴の内外には草木が茂り、風は仏の説法のように鳴り響くのです。仙人が焼香し花を捧げ経典を読む声を、仏縁の深い修行者は今もなお見たり聞いたりするということです。仙人は、後の世の人々を導くために遺骨を残されましたので、一つの堂を建てすべての人々のために仏縁を結ばせるのです。

その所にまた一つの堂があります。そこには弘法大師自作の不動尊を安置されています。これが即ち大師御修行の跡であり、護摩を修された炉壇や御自作の不動尊像はそのままここに残っています。弘法大師発心の地ですから、この地の勝れたありさまの記録、或いは伝記は紛失しましたが、古老がこれを言い伝えています。

聖はこの地に参寵して、憂き世を捨てる覚悟が出来ますようにと祈られました。霊夢を見ることは度々で、仏のおしえは、まことにあらかたでした。この時、私聖戒はひとりおそばにお仕えし、仏に奉つるために聖が美しい月影を浮かべた静かな谷川の水を汲んで運ばれる時には、私は夕暮れの雲のたちこめる山に入って薪を拾うなどして、御修行をお助け申したのです。

そうするうちにも、聖は仏教経典に示された教えである経論を鏡として、浄土における真実の教えの奥義をお授けになり、不動明王を証人として同時の悟りを開こうとお約束しました。くわしいことは略します。その後この山を出られてからは、永遠に家も田畑も投げ捨て、肉親一族とは縁を切り、堂舎すべて仏法のために寄進し、本尊と聖教は私聖戒がお護りいただき、聖はわずかに大切な経論を選び整えさせて、身につけた修行のそなえとされたのです。