一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

宝厳寺の現況と聖絵の紹介

9月1日、宝厳時を訪問しました。住職の長岡佳子さんに一遍上人堂についてお話を伺いました。訪問者は観光客が多く、土日を中心に一月当たり500人前後の拝観者があるそうです。観光客以外では、今治や北条など近隣市町村からの拝観者が多く、8月は、塩崎厚生労働大臣や野志松山市長、鎌倉にある円覚寺の横田南嶺管長が参拝に来られたとのことです。9月18日に黒田桃子主催の俳句塾が催され、23日には第728回忌の一遍忌が執り行われます。

一遍上人堂の中に入ると、正面に一遍の像が立ち、聖絵が展示されていました。

以下に聖絵の解説を掲載いたします。

 

第一巻第四段 窪寺の庵室

その年秋のころ、伊予の窪寺というところに、苔青く緑の蔦の生い茂る、人里離れた静かな土地をきり開いて、松の門と柴の扉という粗末な閑室を作り、東の壁に、この二河白道の本尊を掛け、人と交わることなく、ひとり仏に仕え、万事を投げ捨てて、もっぱら念仏三昧に入りました。行住坐臥の勤行をさまたげられることもなく、三年の月日を送り迎えられたのです。その時お悟りになった内容を、七言の詩に作って、本尊の傍の壁にお掛窪寺の庵室けになりました。

 

十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国

十一不二証無生 国界平等坐大会

十一不二頌 十劫の昔、法蔵菩薩が正覚を得て、阿弥陀仏となったのは、衆生が念仏往生して四十八願が成就したからです。衆生が唱える一回の念仏によって、阿弥陀の浄土に往生できます。したがって、十劫の昔に弥陀の成仏と現在の衆生の一年往生は同じもの。これは、時間空間を超えて、二つが一つである絶対不二であり、ここに真実の世界があります。弥陀の光明に包まれ、衆生の世界が阿弥陀の大会と平等の坐に座るようです。

この詩の意味については、理路整然として折にふれて、よく解るように言い聞かされました。さて、この別行が完了した後は、永遠に世俗の生活を嫌い離れ、ただちに一切のものを捨て去り、わが身わが命を仏法の為に捧げ、衆生を救おうと決心されたのでありました。(同箇所詩書より意訳)