一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

再興された一遍上人立像に会う

平成28年2月18日(木)、中山紘治郎会長、島崎有三総代、三好隆理事長、青山淳平の一行4名は富山県高岡市の竹中銅器を訪ねた。新高岡駅には鉢呂克彦専務がクルマで出迎えに来られていた。駅前に出ると、広場の隅々にだけ帯状の雪があった。車中、鉢呂さんは、一昨日は吹雪で街並みは雪一色だった、と一面の雪景色を期待していた私たちに申し訳なさそうにいった。この日、雪は道路の端や民家の屋根にまだらに残っていた。いつもとは違い、北陸も今年は暖冬なのだそうだ。

駅から南へ少し走ると、富山湾に注ぐ庄(しょう)川の土手の向こうに、白雪に輝く立山連峰が見えてきた。その壮大な景観に目を細めながら川沿いの道を上流へさかのぼると、間もなく創業者支援センターの看板が目に入った。そこを右折し、クルマは作業所らしい建物の前で停車した。シャッターが開かれた大きな入口で、一遍上人立像の再興に取り組まれた彫刻家の田渕吉信さんと、銅器着色師の立川吉孝さんがそろって私たちの到着を待っていてくれた。

31e010ea77d697ed6c0c3a9fb6841664-768x1024 あいさつもそこそこに、私たちは作業所の屋内へ招かれた。コンクリートが張られた土間の中央の机に、青銅で再興された一遍上人立像(りゅうぞう)があった。今にも歩きだしそうである。机の高さは80センチ。台座は20センチ。そして立像は113センチ。私たちはそっと机の前に立ち、仕上がったばかりの一遍の相貌(そうぼう)を見上げ、しばらくじっと見入っていた。焼失した木彫(もくちょう)の立像を青銅で再興する。このことが私たちの目的であった。木彫と変わらない痩(や)せ細った顔だち、太い眉(まゆ)、深い眼窩(がんか)、目頭から目じりへ鋭角に刻まれた三日月状の眼。木彫は玉(ぎょく)眼(がん)なのだが、青銅製の場合は描くことになる。見ると黒漆(くろうるし)で塗り込まれた瞳の周囲の結膜はうっすら赤く、眼光を鋭く際立たせていた。顔の全容は、木彫を偲ばせる求道者(ぐどうしゃ)の烈しく引き締まった表情そのものである。そして鋭く光を放つようだ、と形容された木彫と同じく、胸の前に突き出され、合わさった掌には必至の勢いを感じた。両脚も寸分のゆるみのない出来栄えで、やや前に踏み出した右の跣(はだし)の親指が、わずかに上へそっているところなど、拝観者が思わず手をそこへ伸ばしたくなるほど魅惑ある造りになっていた。

島崎さんと三好さんは、焼失した一遍像の写真を鞄からたくさん出して、頭頂部からつま先の指まで、田渕さんの説明を聞きながら丁寧に確認を始めた。私(青山)は立像の周りを何度もまわったり、立ち止まったりしながら、立像の全貌に視線を注ぎ、像が醸(かも)しだす気配を味わい、発するものを掴(つか)もうとした。いつまで見つめていても見飽きない、確乎たる造形芸術として、一遍は蘇っていた。

最後に、墨(すみ)染めの衣の襞(ひだ)の白っぽい曲線や小鼻と耳朶(じだ)の着色が少し気になる、と中山会長と島崎さんが指摘した。70キロほどの立像は土間に降ろされた。立川さんは自分の手の甲に漆をつけ、色合いを調合すると、指摘があったところに黒漆を塗っていった。私たちは刷毛で立像を撫でる立川さんの手先を見つめた。訪問して一時間余りが経ち、作業所の中まで差し込んでいた西日が消え、土間の奥の石油ストーブの火が赤々と燃えていた。

2328bc9cdd65dcead29a0e12954b6679記念写真を撮り、私たちは鉢呂さんのクルマで作業所を後にした。しばらく、一遍さんとお別れである。来るときはどんな仕上がりだろうか、とみんな一抹の不安があったが、安堵と充足感に包まれていた。ここは、日本を代表する銅器の町である。庄川の土手を市内へ曲がる車中から、夕暮れの平野の遠く、立山連峰が浮んでいた。

(平成28年2月24日記)