一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

宝厳寺(ほうごんじ)再建と一遍上人堂造営のいきさつ

平成25年8月10日(土)の午後2時10分ころ、松山市道後湯月町の宝厳寺の本堂から火の手が上がった。この夏、西日本は8月に入って記録的な猛暑と少雨がつづいていたこともあり、本堂はたちまち吹き上がる炎と猛煙に包まれ、棟続(むねつづ)きの庫裏(くり)にも火が迫った。
境内にいた観光客からの通報で、長岡隆祥住職は本堂に安置されていた重文の一遍上人立像(りゅうぞう)を運び出そうとしたが、すでに堂内は燃え盛る炎で近づくことさえできなかった。火勢はものすごく、住職夫妻は庫裏から逃れ、着の身着のままで裏山へ避難した。消防車がかけつけた時には手の施しようもなく、木造の本堂と庫裏は全焼した。

2ecb42982910e7dc08e0b962837e6dd6 229e655e07658fde352ebe210048b454-e1453883160986この火事で焼失した木造の一遍上人立像は、全国に数ある重文や国宝の人物像のなかでも、造形芸術の最高峰に匹敵する傑作だった。明治30年の古社寺保存法で、当時国内では約200体の仏像等が国宝指定を受けたが、このときに宝厳寺の一遍上人立像も国宝に指定された。明治34年には日本美術院から仏師が来松し、半年余りかけて上人像を修繕した記録が修繕請負契約書として、奈良国立博物館に保存されている。
本堂と一遍上人立像焼失のニュースは、この日の夕刻にはテレビで日本中へ流れ、翌朝には全国紙にも掲載された。同じ時宗(じしゅう)の寺院をはじめ、檀信徒(だんしんと)や有識者、文化人からのお見舞いと励ましが宝厳寺へ続々と届く中、地元の「道後温泉誇れるまちづくり推進協議会」(宮崎光彦会長)は臨時の会合を開き、宝厳寺の再建へ向けて、「道後上人坂再生整備協議会」の設立を決めた。また同じ頃、宝厳寺の檀家総代は住職と共に本堂再建の骨子のとりまとめに入った。そして9月23日、本堂の焼け跡にテントを張って催された大施餓鬼会(おせがきえ)終了後の檀家総会で、長岡住職が再建への決意を語って理解と支援を求めた。その後、総代責任役員の島崎有三氏が再建案の骨子を提案し、了承された。
翌10月初旬、総代会は檀信徒へ「寶厳寺再建寄付金募集要項」を送付した。この中で、建設費の概算を1億5千万円とし、檀信徒寄付金目標額を6千万円とした。すでに宗門関係と住職自身及び住職の知人などから5千万円近い寄付金が集まっていた。これに法人、個人、各種団体から同程度の寄付も見込まれるので、順調ならば目標額に達することになりそうであった。11月には寄付金を募(つの)るパンフレットも作成し、改めて趣意書を添え各方面へ送った。

3d6c43159d20d6f613422e16facb26e7-e1453785314311 4b8fd80a18df200a86f672be63f942c6この間の10月18日、同じ時宗で宮崎県西都市にある光照寺の村上弘昭住職が、不眠不休で2か月余りかけて制作した一遍上人立像を宝厳寺へ持参した。使用したのは樹齢百数十年、伐採後10年経った楠で、直径60センチ、長さ20メートルの原木を4つに割って自然乾燥させたものである。村上住職はこれまで10体をこえる仏像を制作していたが、さすがに祖師像となると難しさは格別で、視線、両脚、顔、頸の表情に苦労し、来る日も来る日も木像をみつめ、本来のすがたに近づけようと30数種類もの彫刻刀を使い分けた。制作期間が短く出来栄えに満足はしていない。しかし奉納した上人像は宝厳寺での歳月と松山の人々の信心に磨かれ、本来のすがたになっていくはずだ、と村上住職は更地(さらち)になった境内で上人像を出迎えた檀信徒に語った。
bce658b27849c7be791836caafd9935e12月にはコンペに応募してきていた設計業者の中から、住職と総代会は鎌倉様式の寺社設計で高い評価のある松山市の汎座古典建築様式研究所(古川禎一所長)の設計図を選定し、施工を大洲市の菅野建設株式会社に決めた。
年が改まった26年当初、地元の道後温泉旅館協同組合(当時・大木正治理事長、現・新山冨左衛門理事長)や道後商店街振興組合(三好隆理事長)から引き続き積極的な支援と協力もあり、再建資金は順調に目標額に届きそうであった。ところが春過ぎ頃から寄付の申し出がにわかに減少し、7月初旬の段階で数千万円ほどの不足が見込まれる事態となった。そこでやむなく設計の一部手直しで資金不足に対応することにはしたが、住職と総代会は浄財を寄付して下さった方々のお気持ちに出来るだけ応えるため、さらに資金確保にも努めることになった。
宝厳寺焼失から1年経った8月中旬、資金不足の問題を抱えながらも再建へと立ち上がった住職と総代会、それに道後の人々活動を取り上げた特集記事が地元紙に掲載された。すると、それから2週間ばかり経った8月29日のことである。長岡住職のところへ愛媛銀行会長の中山紘治郎氏から電話が入り、4千万円の寄付の申し出があった。新聞で再建資金の不足を知り、お役に立ちたいとのことである。すでに愛媛銀行からは、関係の団体と行員から500万円を超える浄財が届いていた。それに加えての大金である。住職は感極まり丁重に何度もお礼を述べた。会長は受話器の向こうで、愛媛銀行は平成27年に創業100周年を迎える。いろいろと記念事業を検討したが、一遍さんのお生まれになった宝厳寺の再建にお役に立てることが出来れば本望である。記念事業としてこれに優(まさ)るものはない。是非にもお役立て頂ければ幸いだ、とさりげなく理由を話した。

住職は臨時の総代会を招集しこの話を諮(はか)った。設計の変更等で目標額の不足は1千万円ほどになっていた。本堂と庫裏の建築費は十分ではないが、目途(めど)はつきそうである。愛媛銀行からの寄付金を役立てる最善の方法はないか。総代会の話し合いはもっぱらこのことになり、必然と火災から得た苦い教訓に及んだ。本堂の火災で、重文の上人像を焼いてしまったが、もし仏像を安置するお堂があったならば、上人像を火事から守ることができたはずであった。住職も総代もかえすがえすも無念で、今も忸怩(じくじ)たる思いで身が震えるほどである。そこで住職も総代会も意見が一致した。この際、愛媛銀行さんの浄財で一遍上人堂を新たに造営し、さらに一遍上人立像を青銅で再興して、上人堂に安置してはどうか、ということになったのである。銀行へ意向を伝えると、大変有難いお話しだ、との答えがあった。上人堂の設計は本堂を建築する菅野建設が行い、施工は松山城の重要文化財の修理で定評のある株式会社二神組が担当することになった。また一遍上人の銅像は、松山市歩行町の秋山兄弟生誕地にある秋山真之の胸像を制作している富山県高岡市の株式会社竹中銅器に決まった。

56a91e41807a1d0bed21c4954e513ef2このように宝厳寺が再興へと順調に動き出した矢先の10月11日午後、第53世住職長岡隆祥氏が身を寄せていた仮寓(かぐう)で急逝した。葬儀と告別式は15日に営まれ、導師(どうし)を尾道市にある時宗海徳寺(かいとくじ)の川崎玄倫住職が務めた。総代を代表して弔辞を読んだ島崎有三氏は、宝厳寺の発展のために上人坂の再開発に尽力された亡き住職のご苦労を偲び、その学識豊かな人柄を讃えた。また俳人黒田杏子(ももこ)氏の弔辞を夏井いつき氏が代読し、文化に造詣(ぞうけい)が深かった故人の面影を伝えた。なおこれより先当面の間、川崎玄倫師が宝厳寺の住職を兼務することになった。
12月26日に宝厳寺造営の地鎮祭が催された。再建構想の当初は本堂と庫裏だけであったが、新たに愛媛銀行の寄進で一遍上人堂の造営と上人立像の青銅製での復興が決まると、その波及効果で寄付金は目標額をこえ、厨子(ずし)や仏壇などの仏具類を奉納したいという人々も多数現われていた。地域の関心はにわかに高まり、この日、檀信徒をはじめ建設関係者、地元経済界、マスコミ、一遍研究の文化団体である一遍会の会員など、二張りのテントには収まりきれないほどの出席者が集まった。施主、設計施工業者に先立ち愛媛銀行の中山会長はビデオカメラが回される中、最初に盛土に鍬(くわ)を入れた。

044f7d807a8b07976608d363db48f3b9年明けの27年3月から基礎工事が始まり、本堂は7月4日に上棟祭(じょうとうさい)を執り行った。また一遍上人堂が上棟したのは7月21日である。初夏に響き始めた再建の槌音(つちおと)は、秋を迎えて一層高まり、道後の上人坂を登り切った宝厳寺の境内からは、日々再建再興の槌音が響くようになった。
上人堂は順調に工事が進み、11月末日には予定通り竣工した。数々の重文建築物の修理実績がある岸根(きしね)永弘氏は、城郭の修理と同様に手ごたえのある仕事で、鎌倉様式の建造物として先々、上人堂が重文に指定されることも十分に想定される、と総代に語っている。

img426 img424いっぽう、上人堂に安置される銅像については、竹中銅器が彫刻家の田渕吉信氏へ制作の発注をしていた。氏は6月になって原型の制作に着手。一通りの構想をつかむと、6月23日に竹中銅器の鉢呂(はちろ)克彦専務を伴って来松した。二人は宝厳寺と愛媛銀行へ出向き、高さ30センチほどの上人像のミニチュアを示して、制作への思いや意気込みを伝えた。等身大の粘土の原型が完成したのは5か月後の10月初旬である。川崎住職は焼失した一遍上人立像の写真とDVD画像を新たに持参し、高岡市の竹中銅器を訪ねて原型を確認するとともに、焼失した上人像の再興へ大きな期待を寄せた。竹中銅器は12月の初めから鋳造(ちゅうぞう)作業を開始し、中旬から着色の工程に入った。すべて手作業である。焼失した上人像と同様の古色蒼然(こしょくそうぜん)とした肌合いに仕上げるため10回以上に渡って黒色の漆(うるし)を塗り込む作業を行い、年が明けた28年1月19日に一連の工程を終了した。
2月上旬までには、本堂のしころ葺(ぶ)きの屋根に銅板を葺く作業が終わり、本堂を囲っていた足場も取り払われる。現在、上人像の開眼(かいげん)法要と本堂並びに上人堂の落慶(らっけい)法要が予定されている5月14日へ向けて、内装工事が行われている。更地になっていた境内の整備と庭造りも併行して進められている。

(平成28年1月27日記)