10 踊り念仏
弘安二年(一二七九)の秋、一遍さんは信州(長野県)佐久というところへ
行きました。承久の乱に、父・通信と共に上皇方に加わった、おじさまの通(みち)末(すえ)が、流された地だったのです。おじさまの跡をねんごろに弔った一遍さんは、この地ではじめて踊り念仏を始めたのでした。一遍さんは何遍も念仏を唱えているうちに胸から湧き上がるものを感じました。自然に手足が動き出して、体全体が躍り上がりました。一緒に念仏を唱えていた者たちも踊り始めました。
うれしくて、涙を流して踊りました。我を忘れての踊り念仏でした。
信州を後にした一遍さんの一行は、白河の関を超え、奥州・江刺(えさし)にあるおじいさまの通信の跡を訪ねています。勇将の誉れ高かった、おじいさまの墳墓のまわりを、念仏を唱えながら何回も何回もまわりました。
身を捨つるすつる心をすてつればおもひなき世にすみぞめの袖(そで)(身を捨てるというその心さえ捨ててしまいましたので、思いわずらうことのないこの世に、墨染めの衣姿でおります)
このお墓は「聖(ひじり)塚(づか)」といって、現在も残っています。(岩手県北上市)
一遍さんは、それからどこへいっても、みんなと踊り念仏をしました。みんなも喜んで一遍さんと踊りました。この一遍さんの「南無阿弥陀仏」は、しだいに日本中へ広まっていったのです。ですから、一遍さんの念仏は民衆(ヽヽ)の(ヽ)念仏(ヽヽ)そのものと言えましょうし、言葉をかえていえば、湧き上がる大地(ヽヽ)の(ヽ)念仏(ヽヽ)であり、更に、渦(うず)となって日本中をかけめぐる、わだ(ヽヽ)つみ(ヽヽ)の(ヽ)念仏(ヽヽ)といってもいいでしょう。