一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

5 白い道

       白い道

 

世の中はさわがしくなっていました。蒙(もう)古(こ)のフビライが国書を幕府に送って来ています。宗教界では、道元(どうげん)禅師、親鸞(しんらん)上人が死に、日蓮(にちれん)上人が佐渡に流されています。智真も武家の一人として、修行僧として、心おだやかではありませんでした。三十三歳の時、智真は窪(くぼ)寺というところに、ささやかな草庵を結びました。

      「二河白道」の図

信州・善光寺で写してきた「二(に)河(が)白(びゃく)道(どう)」の図を部屋にかかげ念仏の修行に入ったのです。

この「二河白道」というのは中国浄土教の祖の善道(ぜんどう)大師が浄土信仰の信者のために描いた図であります。人間の欲と怒、迷(まよい)と罪を、水と火の二つの河にたとえ、その真中を通っている一本の白い道を修行すべき道にたとえたのです。一遍さんはその「白い道」を名号(みょうごう)つまり「南無阿弥陀仏」であるといっているのです。

 

        岩屋寺にて修行

それから幼い従弟(いとこ)・通(みち)定(さだ)をともなって、弘法大師が修行されたといわれる岩屋寺の岩穴にこもり、捨聖をめざして苦行をつづけたのです。通定は後に『一遍(いっぺん)聖(ひじり)絵(え)』を制作した聖(しょう)戒(かい)上人となる人です。

文永十一年(一二七四)十月、蒙古の大軍が初めて来襲(らいしゅう)するのですが、智真が生涯にわたる遊行(ゆぎょう)の旅に踏み出したのはこの年の春でした。

 

☆遊行              僧が修行のため諸方をめぐり歩くこと。

一遍が生涯遊行したので、時宗(じしゅう)代々の上人も遊行し、

そのために遊行上人と呼ばれている。また、時宗の本山・

清浄光寺は遊行寺と呼ばれている。