一遍と今をあるく

一遍上人堂通信

3 河野の人々

    小島に置き去りにされた百合若

 

       河野の人々

一遍さんの先祖には次のような人々がおりました。

1 越智益躬(ますみ)   河野氏は古くから、四国・瀬戸内の名家で、『今昔(こんじゃく)物語』などにでてくる越智益躬は、河野家の祖といっていいでしょう。益躬は武勇の誉れ高く、念仏を唱えながら往生したのですが、その時、音楽が空中に聞えたといわれます。また、推古(すいこ)天皇の時、異国の海賊を平げたことから、みなさんもよく知っている「百合(ゆり)若(わか)大臣」のモデルだといわれています。

2 曾祖父・通(みち)清(きよ)   『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』の治承五年(一一八二)閏(うるう)二月十二日のところに「河野通清・平家に反す」という記載があります。通清は伊予・大三島明神の申し子だと伝えられ、力が強く、両脇の下と額に竜(りゅう)の鱗(うろこ)があったということです。しかし、平家の軍に攻められて、高繩(たかなわ)城で討死しました。

ともかく、河野家の輝かしい歴史は、この人から始まります。

         承久の乱

3 祖父・通信(みちのぶ)   通信は武門に生まれ、武門に生きた人です。父・通清の仇を討った頃から瀬戸内の雄として頭角を現し、壇ノ浦の合戦の時、源氏の水軍の主力となって戦いました。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、幕府の重要な御家人(ごけにん)となり、また、その後、伊予に帰って権力を誇りました。しかし、承久(じょうきゅう)の乱には後鳥羽上皇に荷担、東北の地に流され、六十八年の生涯を閉じます。一遍さんが生まれる十六年前のことです。