一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第21回えひめふるさと塾講演 「漱石赴任当時の松山中学ー『保恵会雑誌』よりー」講師 武内 哲志 先生

第21回えひめふるさと塾 講演要旨

保恵会雑誌に掲載されている漱石の文章

保恵会雑誌とは当時松山中学校の校友会(現在の生徒会にあたる)の会誌で、生徒中心で編集が行われ発行されていた。今でいう生徒会誌のようなものである。この会誌から漱石赴任当時の松山中学校の様子、雰囲気がどういうものであったのかわかる。

漱石は「愚見数則」という題の文章を保恵会雑誌に載せている。箇条書き的に列挙された項目は、漱石らしい教育観、考え方がわかる。また「坊っちゃん」と内容が共通する部分も多く、「坊っちゃん」に影響を与えている文章でもある。短い文章だが、漱石の本質が非常にわかる。

漱石は会誌印刷代として三円の寄付を行なっているが、他の教員が数銭から数十銭であることから、破格の金額である。このことから漱石の気前のよさがわかる。

発見された夏目漱石の未発表句

昨年の六月、漱石の未発表句が和歌山で発見された。松山中学在任時代の同僚、猪飼健彦に宛てた手紙に同封されていたものである。手紙は漱石が熊本県第五高等学校への赴任が決まり、別れのあいさつに訪れたものの会えなかった猪飼が手紙を送り、漱石がそれに返答する内容である。漱石は会えなかったことを詫び、猪飼の手紙に添えられていた短歌の返礼として、手紙に俳句を添えた。一八九六年(明治二九)に撮影された松山中学の集合写真には、漱石と猪飼が隣り合って写っている。短歌をもらった相手に俳句で返していることから「自分は俳人である」という漱石の意識を感じる。

花の朝 歌よむ人の 便り哉

夏目漱石と高浜虚子

高浜虚子との出会いは漱石の人生に大きく影響した。初めて漱石と虚子が出会ったのは漱石の下宿先である愚陀仏庵。漱石は高浜虚子の勧めで「吾輩は猫である」を書き、作家の道を歩み始めた。また高浜虚子に「坊っちゃん」の原稿を送り、方言部分について修正を願う手紙を書いている。虚子に松山らしい口調に修正してもらったことが「坊っちゃん」をさらなる名作にしたのではないかと思う。

虚子との出会いがなければ作家・漱石は存在しなかった。松山で子規や虚子など様々な人と出会ったことによって人間的にも成長し、視野が広がったのではないかと思う。松山の人々が漱石を育てたといっても過言ではない。

H27.9.19(土)国際ホテル松山 (文責 青山 淳平)