一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第13回えひめふるさと塾講演「瀬戸内海の海賊」講師 山内 譲 先生

第13回えひめふるさと塾 講演要旨

芸予諸島には能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の有力な海賊が3氏いた。その中でも最も独立性の強い、海賊らしい海賊が能島村上氏であり、宣教師ルイス・フロイスはこれを「日本最大の海賊」とよんだ。能島村上氏は様々な活動をするなかで毛利氏、大友氏、河野氏などの戦国大名と関係を持ったが、なかでも最も関係が深かったのは毛利氏であった。多くの戦いをしてきたが、そのなかで最も有名な海戦が1576年の第一次木津川口(淀川の下流)の合戦である。織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺へ兵糧を搬入しようとした毛利水軍が信長の水軍と木津川の河口で激突した。その毛利水軍の主力が能島村上氏であった。

第13回もそも海賊とは何か。海賊といったらどのようなイメージがわくだろうか。授業で学生に聞いてみたところ、一番多かったのが映画の「パイレーツオブカリビアン」で、二番目には倭寇、三番目にバイキングであった。いろいろな海賊のイメージがあるが、一般的にそれらを総称して海賊と言ってしまっていると思う。パイレーツとはカリブ海などで活躍した海上勢力のことであり、日本史上の実在の海賊とはまったくの別物である。このようなパイレーツと日本の海賊との間でイメージの混同がおこっている。なぜイメージが混同したのか。「ピーターパン」や「宝島」などに海賊がでてくるが、これはパイレーツである。そのパイレーツを翻訳するときに、日本に実在する「海賊」という言葉を使って翻訳したために、イメージの混同が起こったのではないかと私は考える。パイレーツはパイレーツであり、バイキングはバイキングであって、海賊とはまったく別物ということである。

それでは日本史上の実在の海賊はどのような活動をしていたのか。まず一つ目が航行する船舶から金銭を徴収していた。これが海賊のマイナスのイメージにつながっているのだが、それは航行する船舶の側からの見方であり、海賊側の立場から見てみると、別の見方ができる。当時の記録などを見てみると、その金銭のことを「礼銭」と言っており、航行する船舶側からは「当然払わなければならないお金」という認識だったようである。一見、略奪のようにみえるが、海賊側からすると通行料の徴収であり、それは正当な経済行為であった。ではなぜ海賊が通行料を徴収できたのか。それは、その船舶が通行する場所が、海賊が長い間に作り上げてきた生活の場であり、海賊側からすると自分たちの庭のような海域として成立していたからではないかと思う。だから、「そこを通らせてあげるのだから然るべきお金をとるのが当然ではないか」という認識だったのではないか。通行する船舶の方も、それに対して礼をするということで「礼銭」という言葉が使われたのではないだろうか。

第13回2海賊のもうひとつの活動として、航行する船舶の安全を保障するという側面があった。航行する船舶に有力な海賊が乗っていれば、他の海賊に通行料を徴収されることもなく、襲われることもなかった。その代わりに警固料を支払った。これらのことから、海賊とは通行料や警固料を徴収することを生業としている海の民だったといえる。そのような日常活動の中から冒頭に記したような有力海賊が台頭し、水軍としての活動を展開するようになるのである。

H26.5.17(土)国際ホテル松山南館 (文責 青山 淳平)