一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第6回えひめふるさと塾講演「人 生 雑 感」 講師 吉野内 直光 先生

第6回えひめふるさと塾 講演要旨

私も「古希」70を迎えた。

45年間県庁でお世話になった。ふりかえるとその間、3回の節目があった。一つは、30歳の時に1歳2カ月の娘を亡くしたことだ。25歳の時に長女、29歳で次女が生まれ、この次女が亡くなった。つらかった。私の場合は香典をほとんどパチンコに使った。幼馴染だった家内は放心状態だった。そんな時、ある先輩に「まだ、ええほうじゃ」といわれた。何がええほうじゃ、と思った。しかしよく聞くと、「お前は子供の死で、悲しみというものが味わえる。生まれたときには喜びもいっぱいあったはずだ。わしの場合は、そもそも子供がおらん」。なるほどなぁ、と思った。子供を亡くすことは非常につらいことだが、自分というものを見つめなおすことができた。それで、人生にあんまり怖いことがなくなった。これからは、本音で生きていこうと決心した。

第6回130年たち、教育長を退職するときにお墓を建てた。自然の石に坂村真民先生にお願いして「夢」という字を書いていただいた。前のお墓を改装するとき、骨壺を出した。1歳半だから、たいした骨は入っていない。骨壺の中は水が一杯たまっていた。持って帰り、新聞の上に広げて乾し、またお墓の中に入れなおした。「夢」という字。やはり、私の想いとして、娘には青春の夢とか、いろいろな夢があったはずで、それが果たせなかった。そこで父として、せめて「夢」という字を刻んでやりたかった。

第2の節目は52歳のときで、教育委員会の管理部長から生涯学習センターの所長への異動だ。私自身は本庁で苦労していたから、桜を眺めてホッとしていた。色々な噂が耳に入ってくる。近しかった人々が潮の引くように離れていった。「もう、吉野内は終わった」というようなことが、家内の耳にまで入ってきた。励ましてくれる人もいた。ひめぎんの仙波さんは「はよう帰ってこいよ!」と心底いってくれた。しかし大方は背中をみせるようになった。「落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 人の心の奥ぞ知らるる、朝日拝む人あれど、夕日を拝む人はない」である。人間の弱さというものをしみじみと感じた。しかし私自身は広田弘毅ではないが、「風車 風が吹くまで 昼寝かな」の心境だった。

第3は、平成11年の知事選で、東京から「加戸の風」が吹き、愛媛にとって大変よい風になった。その加戸さんが知事になり、私を教育長にしてくださった。それまで、私は愛媛県研修所所長というポストにいた。この研修所というのは、非常に歴史のあるところで、久松さんの別荘と御茶室があった。幕末のころは高浜虚子の祖父が管理をしていた。竹藪があり、子規は「閑古鳥 たけのお茶屋に 人もなし」、また虚子は「ふるさとの この松伐るな 竹伐るな」と詠んでいる。誠に環境の良いところである。そこから教育長になった。加戸さんが知事にならなければ、私は研修所長で終わっていた。どこでどうつながるのかわからないものだが、これも大きな転機だった。

第6回2教育長時代の仕事というと、「中高一貫校」を愛媛県で3校つくったことだ。文部省の「ゆとり教育」の一環であった。「十五の春を泣かさない」ということで、高校入試をしないことになった。松山西、宇和島南、今治東の3高校が対象となった。私は思い切って昔の中学校の名前を使おうとしたが、たとえば「松山中学」にしてみたらどうか、と提案したが、これは松山東高校の前身なので、松山東の卒業生に怒られた。名前を付けるのは実に難しい。

また、昔は情報公開には逃げ腰でなかなか公開しなかった。今日では高校入試の試験問題は新聞に掲載され解答もついているが、当時は情報公開制度が出来ていたけれども、公開はしていなかった。高知県ではこのことをめぐって裁判になった。愛媛でも県教組の方から請求が出た。実際に出して生徒が見ているわけだから、どうして新聞に出さない(情報公開しない)のか、ということだ。内間では、問題を作成する指導主事は抵抗勢力だった。ミスがあったら、見苦しいというわけだ。私は英断し、公開にふみきった。裁判になっていた高知県の教育長から「愛媛に先にやられて、どうしよう」と、ぼやかれた。さらに県議会の方によばれて、自民党の幹事長が「あんなに良いことをするなら、相談してくれたらよかろうが」と、お叱りをうけた。

えひめ丸事故のとき、森総理と加戸知事が大変親密な間柄であったことは、事故後のさまざまな問題の解決にとても有利に働いた。事故後、三連休の初日であったが、加戸知事に来て頂いて私たちは直ちに対策本部を立ち上げた。知事は翌日に上京し、森総理にもお会いいただいた。えひめ丸は600mの海底に沈んでいた。アメリカの場合は、船が沈んでもそのままで、揚げない。ハワイ・オアフ島のアリゾナ記念館がよい例だ。火葬場でも全部灰にし、骨がない。日本人の場合は、遺骨がほしいし、亡骸がほしい。えひめ丸は水深35mの海底まで移動され、ダイバーが遺体を引き揚げた。ここまで出来たのは、森総理がアメリカに理解を求め、かなりのプレッシャーをかけてくれたおかげだ。

中学校の日本史の教科書採択の問題だが、制度上、県教委が採択できるのは、県立の特別支援学校しかない。特別支援学校でも普通の教科書は使えるから、そういう生徒を対象にして六冊、最初の年に採用した。そして2年目は中高一貫校に160冊採用した。反対する人たちがいて、身辺警護の係官がついていたこともある。

62歳の時に思いもかけず、副知事を拝命した。副知事の仕事というのは、知事の仕事の補佐だから、知事が仕事をしやすいようにお膳立てをする。あまり良い話ではないが、職員の給与カットをした。最初の年に60億のお金を作った。ところが厚労省の福祉手当の制度変更で、40億円国に持って行かれた。その穴埋めで議長公舎の売却を検討したところ、知事から知事公舎にするように指示された。これは高く売れた。念願のサッカー場の改修はこの売却費で可能になった。このように財政改革を若干お手伝いした。行政改革としては、職員定数の1割カットをはじめた。最後の仕上げに、地方局5局を3局にした。

H25.3.16(土) 国際ホテル松山(文責 青山淳平)