一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第11回 えひめふるさと塾 講演「捨聖一遍と宝厳寺」 講師 三好 恭治 先生

第11回えひめふるさと塾 講演要旨

平成二五年八月十日午後二時十分過ぎ道後奥谷宝厳寺(一遍聖生誕寺)本堂から出火し、本堂と庫裏を全焼した。本堂内の春日仏師作「阿弥陀三尊」、国重要文化財「一遍立像」、得能通綱奉納「河野通信・通広・通俊夫妻大位牌」はじめ貴重な「越智姓河野系図」等が焼失し、わずかに懸仏が焼損の状態で発見された。

第11回寺院と「一遍立像」の焼失を惜しむ声は多く、県下から再建の募金活動が動き始め、さらに全国の時宗寺院や河野会からも支援が寄せられている。平成二八年秋には再建される見通しである。

一遍坊智真は俗名通秀(通尚)と云い「俗姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広が子なり。延應元年(1239)豫州にして誕生。十歳にて悲母にをくれて、始めて無常の理をさとり給ひぬ。つゐに父の命をうけ、出家をとげ」、天台宗・浄土宗を修行し父の死後郷里で還俗した。再出家後、熊野大社証誠殿(本殿)で「一切衆生の往生は南無阿弥陀佛と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし。」の神託を得て念仏布教に入る。

一遍は、捨聖・遊行聖・念仏聖・阿弥陀聖・市ノ聖・湯ノ聖・医ノ聖などなどの呼称があるが、一遍の思想は「捨家棄欲」と「念仏布教」に収斂する。

捨家棄欲については「衣食住の三は三悪道なり。衣装を求め飾るは畜生道の業なり。食物を貪求するは餓鬼道の業なり。住所を構へるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道を離れんと欲せば、衣食住の三つを離れるべきなり。」として、自らを下根の者として「一切を捨てずば、定て臨終に諸事を著して往生を損ずべきなり」と思う故に先達の空也上人に倣い「捨ててこそ」に徹した。

第11回2念仏布教の形態は一遍時衆を特徴づけているが、遊行(非定住)に徹し「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札(算)を配り(賦)、踊念仏をおこなった。のちに念仏踊りになり今日の盆踊りに一般化した。踊念仏は自然発生で起こり「とも跳ねよかくても踊れ心駒弥陀の御法と聞くぞ嬉しき」と一遍は詠んだ。遊行は過酷な旅であり「旅衣木の根萱の根いづくにか身の捨てらねぬ所あるべき」であったが同行の時衆とともに大隈国(鹿児島県)から陸奥国(岩手県)まで四六時念仏を唱えて賦算し念仏の普及に務めた。

正應二年(1389)兵庫の観音堂で寂するが、「我が化導は一期ばかりぞ」と弟子に伝え、「一代聖教みなつきて南無阿弥陀佛になりはてぬ」とした。

現代でも「南無阿弥陀仏(なんまいだ)」は日本人の誰もが一度は口にする祈りであり、「捨ててこそ」の精神は「断捨離」として再生している。念仏そのものは坂村真民翁の残された「念ずれば花開く」に昇華されていった。 南無阿弥陀佛。合掌。

(注)引用は浅山圓祥校註『一遍聖絵 六條縁起』(山喜房佛書林)、大橋俊雄『法然一遍』(岩波書店 日本思想体系)に拠る。

H26.1.18(土)国際ホテル松山南館 (文責 青山 淳平)