一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第2回 えひめふるさと塾講演「第二次長州征伐と伊予~情報が明暗を分けた~」 講師  近藤俊文 先生

第2回 えひめふるさと塾 講演要旨

ビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といったが、歴史好きの医師である私は、「歴史学は腑分けだ」と思っている。

第二次長州征伐は慶応二年六月五日、五境(周防大島、芸州、小瀬川、石州、小倉、<注>小瀬川を芸州にいれ、長州側では四境戦争ともいう)から幕府側が総攻撃をかけることから始まった。大島口では、七日に幕府の軍艦が大島を砲撃、翌八日に松山藩兵二千人以上と幕兵千人が大島に上陸し、十六日に源明峠を主戦場に島民の守備隊と戦った。松山藩は戦場周辺を占領したが、長州側から来援した五百人余りの騎兵隊の攻撃をうけ、敗退した。

IMG_0413この大島口へは、宇和島藩も出兵を命じられていた。藩はしぶしぶ三(み)机(つくえ)にまで兵を出した。そして三机陣地にやってきた幕軍総督府の軍(いくさ)目付の手前、陣地では「大島へ行くぞ、行くぞ」と兵が海をわたる気配をみせながら、軍目付を酔いつぶさせるなどして、兵を三机に留め置いていた。いっぽう藩主の伊達宗(むね)城(なり)は幕府側へ「浦舟(うらふね)による攻略は余りにも無謀な戦略である」など、なんやかやと征長反対の意見書を四度も具申し、戦場への派兵を引き延ばす政治工作を行った。というのもこれに先立つ嘉永七年、「もはや徳川の天下は覚束なく、十年の争乱も必至」という危機感を抱いていた宗城は、多くの藩士や腹心の僧毎(まい)巌(がん)、壬生(みぶ)侍流れのスパイまで長州へ入れ、薩摩からは親交のある島津久光をとおして、攘夷、開国、勤王、討幕など雄藩と志士の動きの把握に努めていた。さらに禁門の変後、幕府と長州の対立が決定的になると、朝廷のある京都からの情報収集につとめ、連携を強めようとする薩長の動きまでも十分に察知していた。これは幕府側からの一方的な情報に基づき、征長総督の命令に従うだけだった松山藩とは大いに異なるところである。英明な宗城は時代の流れを的確に見通していた。「長州征伐は女のよばい、いったらやられる」は当時の戯言だが、洋式教練で鍛えられた長州軍に火縄銃やゲーベル銃では戦になるはずはなく、宗城は大義なき征長で藩財政を疲弊させ、兵を失うことは何としてもさけたかった。

ちょうどこのとき、長崎へ派遣していた家老の松根図書(ずしょ)のもとへ朗報が舞い込んできた。図書日記によれば、シーボルトの娘のイネが図書の宿泊先を訪れ、イネの異母弟で英公使館通訳のアレキサンダー・フォン・シーボルトが会いたがっている、と告げた。長州征伐の総攻撃がはじまった翌日の六月六日、鳴滝(シーボルトの塾があったところ)へ出向いた図書は、英公使ハリー・パークス一行(英東洋艦隊)の宇和島訪問を実現させてはどうか、とシーボルトから提案をうけた。願ったり叶ったりである。というのもこの年二月、パークス一行の訪薩を知った宗城は、パークスの宇和島訪問を切望していた(パークスの方にも雄藩訪問計画があった)。そこで図書は宗城の意を察して、長崎奉行能勢大隅守と会談。機知あるやりとりのあと英艦隊の宇和島訪問を認めさせた。十一日に図書は長崎から帰藩し、英艦隊の具体的なスケジュールを宗城に報告した。宗城はただちに英艦隊渡来を理由とする出兵猶予伺いを幕軍総督府へ提出させ、二十二日には城下の警備などを理由に三机から兵を引きあげ、征長の責めを逃れることになった。

IMG_0436かくして六月二十四日、まず英国測量船サーパントが宇和島湾に来航、翌日には鹿児島を経由して艦隊旗艦プリンセス・ロイヤル号、さらに二日後、パークスは長州を経由してサラミス号でやってきた。英国と幕末四賢候の一人伊達宗城の出会いはこのような経緯をへて実現した。パークス一行が大いに歓迎されたことはいうまでもない。これは余談だが、七月二日に宇和島を去った英艦隊のなかの測量船サーパント号は翌日、安満寺浦(宿毛湾)にすがたを現わしたので、宿毛藩は攘夷攻撃をかけた。が、艦の大きさにびっくりし、重臣竹内綱(吉田茂首相の実父)が単身で艦に乗り込み、交渉したが席上で泥酔してもどってきたため蟄居を命じられた。

最後に、このころ諸侯はどのような国をつくろうとしていたか。勝海舟は西郷に共和政治を語っている。つまり、諸侯は朝廷を頂いて公儀公論を行う一種の議会政治である。いま検証すると、日本の近代化にはそれぞれ、討幕と公議政体、復古思想と欧化思想、中央集権と地方分権、侵略か平和外交といった二つの流れがあったが、現実には薩長政府の強権政治、現人神と統帥権、地方の疲弊と官僚組織の肥大、そして台湾出兵から大東亜戦争という選択をした。戦後ポツダム宣言を受託した日本は、パックス・アメリカーナの下、政治的・軍事的独立を喪失した状態である。世界がパックス・シナーナの時代へすすみつつあるなか、日本はこれからどうなるのであろうか。宗城の機略に富む外交からも学ぶことが多いと思われる。

平成24年7月7日  国際ホテル松山