一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第1回 えひめふるさと塾講演「ふるさとに想う」  講師 加戸守行 先生

第1回 えひめふるさと塾 講演要旨

東京にいた私にとって、ふるさとは室生犀星の詩のように「遠きにありて思うもの」であったが、知事として帰郷し、愛媛の風土を誇りにしなければならないと思うようになった。「御縁」を五つの縁に置き換えてみると、血縁(家族・親族)、地縁(私にとっては八幡浜、ふるさとそのもの)、学縁(小中高大の同窓生)、職縁(私の場合は文部省)の四つの縁に加えて心縁(共通の理念、考え、思いに基づく人と人との結びつき、その要因が宗教の場合は神縁、)がある。えひめふるさと塾の会員は、この心縁の結びつきである。

IMG_1481知事は四年に一度、天皇に御進講をする。私は三回、御進講をしたが、いつも冒頭で愛媛の県名の由来をお話しした。愛媛は古事記の「伊予ノ国を愛比売と謂い」から採られている。漢音では「あい、ひ、ばい」となる。これを呉音で「えひめ」と読む。この美しい大和言葉に漢字をあて「愛媛」とした。県名として大変よい名前をいただいている。私は、「愛」を県政のキャッチフレーズにしたいと考えた。

お遍路さんへのお接待など、愛媛には「愛」の風土がある。その風土が生かされ多くの日本人を救った事例がある。日露戦争のときに、松山の人々はロシア将兵捕虜を大切にもてなした。それから40年後、先の戦争では、60万人の日本人将兵がシベリアに抑留され、過酷なあつかいを受けたが、唯一、日本人捕虜を歓待した町があった。グルジアのトリビシに連れていかれた日本人捕虜は、トリビシの市民に大切にされたのである。それは市民たちの間に「マツヤマでの厚遇」が語り伝えられていたからだった。愛媛の「愛」が多くの日本人のいのちを救ったのである。また、直接愛媛とはかかわりがないが、「日土友好」の起点となったエルトゥールル号遭難事件(秋山真之は救助されたトルコ将兵の本国送還に携わっている)は、イラン・イラク戦争のとき、バクダッド空港に孤立した日本人215名をトルコ航空機が救助するという友愛のドラマを作り出した。このように「愛」はまさに普遍的な価値をもっている。正岡子規や秋山兄弟、一遍上人などなど、伊予の先人たちの行動や思いはさまざま形でよい話として今日に伝えられている。わたしたちは大いに誇りにしたい。

ところで、日本は明治5年に学制をしくが、これによって日本国民はレベルアップした。明治政府が立派だったことは、学校教育の一番の目標を「身を修める」ことにしたことだ。すなわち、「人間としてどう生きるか」を教育の根本におき、その次が学力と才芸にした。具体的には、教科の最初に「修身」を位置付けた。ワシントン大統領と桜の木、天然痘ワクチン開発のジェンナー、野口英世、ナイチンゲールなどなど、数々の挿話を通して人間として生きてゆくための「糧」を学校教育は与えた。しかし先の大戦に負けて、人間教育は骨抜きにされ、道徳心を教えることがなくなった。

IMG_1495いまは、個人の(誤った)自由、個人主義がはびこっている。トルストイは晩年、「人生は愛である」と断言しているが、その「愛」は決して自由ではない。自分を犠牲にし、人のために尽くすことが愛であり、母はその典型である。トルストイは愛を行うために、「愛の方程式」を示している。分子を他者への愛、分母を自己愛とすれば、自己愛を1よりも少なくすればするほど、他者への愛は大きくなる。自己愛をほんの少し、0.9か0.8に下げることならだれでもできる。これが私の考える「実践的な愛」である。

知事として困ったことの一つに、県民の要求がきわめて多いことだった。行政サービスに対して肥大化した要求に十分応えることはできない。県民みんなが互いに助け合うしかない。なんでもよい、各人がお金、知恵、労働をそれぞれ持ち合ってやってゆく。各自がいわゆる「租・庸・調」のいずれかを行政へ提供する。県政のなかにこのような仕組みをつくることにした。道路、河川、海岸の清掃活動は今日もうまく機能しているボランティアの成功例である。財政がひっ迫している今日、ふるさとをよくしてゆくには「愛」の実践であるボランティアの役割はますます大きくなってきている。

平成24年5月19日 国際ホテル松山