一遍と今をあるく

えひめふるさと塾

第9回 えひめふるさと塾 講演「真民詩の根底に流れる五つのこころ」 講師 西澤 孝一 先生

第9回えひめふるさと塾 講演要旨

坂村真民記念館の開館を手伝い、現在私は館長をしている。まず真民の全体像を掴み、作品の背景まで知っておかないと館長は務まらない。助かったのは真民が四十二歳から毎日つけていたノートがあったことだ。出来事や思想が克明に書かれていたが、整理すると五つのこころがあることを感じた。

第9回一つ目は、やはり母を想うこころだ。真民が八歳のときに父が亡くなった。家族は父の実家に間借りをして貧しい生活をしていた。母方の祖母は、真民は五人兄弟だったが、上の三人は養子にやり二人の子どもだけ連れて母の実家に帰るように強く言っていた。その説得に対し母はいつまでも応じず、ついに「はい」と言わなかった。家族全員で暮らせたのは母の強い覚悟があったからと、骨身に染みて感じた。母への恩に報いることが真民の生きる原動力となった。

○朗読「念ずれば花ひらく」

真民は四十六歳で、すでに母が亡くなって二年経っていた。真民は片目をほぼ失明して、眼科にかかっていた。眼科の前の小さな神社にモチの木があり、赤い実がなっていた。それをみたとき真民の頭のなかに「念ずれば花ひらく」という言葉がよみがえった。母の名前が種子(たね)だったからだ。母が辛いとき悲しいときに、いつも口にしていた言葉だ。真民が体を痛め失意のどん底で、しっかりと母に恩返しする思いで詠んだ。

○朗読「昼の月」

特に秋の時期は昼間でも空を見ると太陽と反対側に月がでてきている。その月に母をなぞっている。太陽のように煌々と照らすのではなくて、静かにかすかな光の中でいつも自分をじっとみてくれる。真民は、そういう月が大好きだ。

二つ目は、家族を想うこころだ。真民にとって心が安らぐ場所は妻と三人の子どもがいる家庭だった。今では失われそうになっている家族の絆や温かさを見つめなおしてくれる。

○朗読「三人の子に」・「五十九年間」

第9回2三つ目は、仏を想うこころだ。真民と仏との出会いは吉田の大乗寺を知ったときだといえる。大乗寺は臨済宗妙心寺派で、四国で唯一専門道場をもつお寺だ。そこに河野宗寛が住職としておられた。その人間性に惹かれ、住職と同じような生活をした。その中で、真民は仏教を非常に深く学ぶ。臨済宗だけではなくて、道元の曹洞宗、禅宗以外の日蓮宗、浄土宗、さらにはキリスト教、イスラム教も学んだ。学ぶのは自分自身を見つめなおすためであり、宗教家になるためではないと言う。「両手の世界」と「あ」は仏教の根底にある“仏”そのものを分かりやすい真民の言葉で表現している。

○朗読「両手の世界」・「あ」

四つ目は、大いなる人を想うこころ。杉村春苔先生が真民にとって大きな先生だった。この方は一時大乗寺で修行をしていたことがあった。まず真民が手紙を送り交流を始めた。真民は人間としての生き方を学び、そして真民流の生き方をつくっていった。春苔先生が亡くなるまで真民から春苔先生に送った手紙が三百四通、春苔先生から真民へ送った手紙が三百二十七通あり、すべて残っている。春苔先生も真民からの手紙を保管していたのだ。真民はどんなに時間がかかっても自分の道をまっすぐに歩くことは最後まで貫き通した。こういう生き方を詠った詩が「鈍刀を磨く」と「時間をかけて」だ。

○朗読「鈍刀を磨く」・「時間をかけて」

五つ目は一遍上人の意思を継ぐこころだ。残念ながら、先日宝厳寺が全焼してしまった。そこに安置されていた一遍上人像も跡形もなく焼けてしまった。真民が生きていたらなんと言うのか想像しがたい。一遍上人は厳しい修行を重ね、三十五歳のとき熊野権現のお告げを受けた。「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書いたお札を配って全国を回りながら信者をふやしていき、時宗という宗教集団をつくった。信者は庶民が圧倒的で、卑しい身分のものにもお札を配り、極楽浄土に導いた。亡くなる際にはもっていたお経、着物など全てを焼き尽くしたといわれている。一遍上人の生き方から学んだものは「不要なものはもたない」ということだった。真民は多くの本を読んだが、訪ねてきた生徒や知人に差し上げていった。また、真民は様々な賞を受賞したが、その賞金は封をきることなく、自治体や私団体等に寄附をした。こういう真民の生き方を表した詩が「大事なこと」と「身軽」だ。

○朗読「大事なこと」・「身軽」

最後に日本人が今後どう生きるのかと考えたときに、この詩が参考になると思う。加戸元知事もご退任の際にこの詩を引用し、後を託した。

朗読「あとから来る者のために」

H25.9.21(土)国際ホテル松山南館 (文責 青山淳平)