一遍と今をあるく

哲学カフェ一遍

団地の現在

「文藝春秋」4月号が、奥野修司(NF作家)「ひばりヶ丘団地<夢の後>」というルポ記事を載せていた。1960年、同級生で東京の私大に進んだ男を世田谷のアパートに訪ね、一晩泊めてもらったことがある。6畳間の家賃が、1畳につき月額1000円と聞いてたまげた。東京は物価の高いところだ、とつくづく思ったことがある。

都心から電車とバスで20分という交通至便の地に、東京で最初に造られた「ひばりヶ丘団地」(敷地34ヘクタール:広島大のキャンパスよりは狭い)がある。1959年に完成したこの団地は、元は4階建ての完全洋式の集合住宅等が立ち並んでいて、当時の皇太子ご夫妻が渡米前に生活様式を見学に来られたこともあるという「高級団地」だったという。

 

それが今、多くは高層マンションに建て変わっているそうだ。住民の多く(34%)が高齢者(65歳以上)だそうだ。最後の一文が意味深長だ。

「墓地のない団地という街は、歴史の中でほんの一瞬だけ存在した邯鄲(かんたん)の夢だったのかもしれない。」

同じテーマを扱った本、野沢千絵:「老いる家 崩れる街 」(講談社現代新書, 2016/11)は書評で取り上げた。

http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1490414390

なるほど団地に墓地はない。葬儀場や遺体保管所もないだろう。それで東京では僧侶の「アマゾン宅配便」や火葬待ちの「遺体ホテル」まで登場したのだなあ、と思った。

東京で起こることは地方都市でも起こる。高知県の大川村では人口が400人にまで減少し、村議会が維持できなくなるので直接民主制(住民集会)を検討しているという。「細胞病理学説」の提唱者ドイツのウィルヒョウは、国家を人体になぞらえた。細胞(人間)が老化・減少すれば、その集合体である団地や自治体や国家にも大きな変化が生じるのは、いた仕方ない。

引き続き情報収集が必要だなと思った。