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日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどるXI

  日本のあけぼのー伊達宗城公の足跡をたどる 

  その十一 パークス襲撃される 一

   広東、北京、摂海、宇和島

慶應四年二月二十九日、ハリー・パークス英公使はさわやかな気分に満ちて、知恩院の大門に立って明けそめる京の街並みを俯瞰していた。彼の脳裏を将軍慶喜、外国奉行伊達直毅、薩摩の小松帯刀や西郷隆盛、宇和島の隠居宗城などの顔々が走馬燈の様によぎる。

ー今日はいよいよミカドとの對面だー

全身が引き締まるおもいがあった。五日前には公使館員たちに四十歳の誕生日を祝ってもらったばかりだ。ふつふつと血潮がたぎってくるのをおぼえた。

天保十二年、十三歳の時に中国の姉を頼って東洋の地を踏んだ病弱な孤児の一少年が、その才覚と闘争心と努力、そしてなによりもその人格力によって超一流の外交官へと成長していた。オックスブリッジ出のエリートたちにまじって、グラマースクール中退のハリー少年が踏んだ外交官栄達の道は奇跡的ですらあった。

彼の知能の高さは二十四歳広東領事館通訳官の時に、学術誌『王立地理協会誌』に「ロシアの中国隊商貿易」を投稿していることで知られるのだが、一方では安政三年にアロー号事件が勃発するや兵を率いて広東に上陸し、広東長官を逮捕するという荒技をやってのける。若干二十九歳だ。結果的には以後四年間事実上の總督として広東を治めることになる。広東政略の勲功によって三十歳にしてナイトに叙爵され、中国側は彼の首に三万ドルの賞金をかけた。

万延元年、英仏軍は北京攻略戦を制した。勝利者として天津条約を締結して帰途についた英仏委員は突如捕らえられて北京に送られ、入獄の上凄惨な拷問にかけられ、大部分が獄死する事件がおきた。死刑を宣告され、首かせ足かせで身も伸ばせない牢獄生活に耐え抜いて生還したパークスは、一躍母国の英雄となり、バス勲位二等に昇爵した。

慶応元年閏五月、この荒武者は上海領事から日本駐在公使へ昇進して江戸に着任した。

   プリンセス・ロイヤル号

早々に彼がやったことは、英・仏・蘭・米の意思を統一させて、大艦隊を摂海にならべた文字通りの砲艦外交で、安政條約の勅許と兵庫開港をもぎ取ったことだ。幕府と朝廷は震え上がってなすすべを知らなかった。目の覚める早業だったが、永年中国で学んできた東洋人の手練手管に精通していたからこそできた壮挙であったろう。

その時に活躍したのが、本当は時代遅れだったが、図体だけはばかでかい、慶応二年盛夏に鹿児島と宇和島にやってきたプリンセス・ロイヤル号だった。

ところで、パークスと宇和島藩の最初の接点はいつ・どこだったのか。

アレクサンダー・フォン・シーボルト

 

元治元年末から慶応元年初頭にかけて、フィリップ・フォン・シーボルトの長男で英国公使館通訳だったアレクサンダー・フォン・シーボルトが長崎で松根圖書と逢って、英国と宇和島藩との直接貿易を打診したのが、英公使館と宇和島藩との最初の公式接触だったことが文献的に確認できる。

その六ヶ月後に、パークスは日本に着任してアレックスを重用するようになるのだが、アレックスと宇和島藩の關係は、安政六年に父フィリップが日本に再来したときにすでに生じていた。アレックスの姉おいね、彼に日本語を教えた蘭学者三瀬周三などとは切っても切れない縁があったのだ。

元治元年という年は薩摩藩が五代才助の建白を受け入れて、大転換する年だった。薩摩の新波長と宗城公のそれが共振したときに、くしくもパークスの来朝があったのである。